四月十四日(木)再び歌論について | keiの歌日記

四月十四日(木)再び歌論について

昨日の分の中で、説明不足の、いや、昔すぎて判然しないところが多々あったと思うが、作品に「哲学」を感じたいというのが私の偏見である。フィジカル・パターンの、或いはフィジカル・パターン風の作品はどうもすんなり入って来ない。言葉の持つ生命に少し執着しすぎるのかもしれない。

 花火のごとく華やかに咲いて、大方は散ってしまったかっての前衛歌人のなかで、なお霧消せず屹立して耀いて居る部分に強く惹かれるのもこのことと無関係ではない。

 言葉の綺羅で、空虚な内容を奇異に衒ってもそこになんの「哲学」も感じさせてくれない前衛の騎手(たとえば某氏)、ありきたりの日常茶飯事を、読者の諒解は無視してこむつかしく歌う自称前衛歌人(たとえば某某氏」等の作品を私は拒否する。 彼等の歌に何のメンタルシヨックも受けない。

 だが、塚本邦雄や岡井 隆の場合には私の態度は違う。特に塚本邦雄の場合そうなのだが、奇抜な発想、難解な語句、美麗な活字、そんな形而上的なものを、前衛短歌の全部だと拒否してしまう姿勢は採りたくない。彼は、大勢のエピゴーネンを生むひど、やはり器が大きいことを素直に認め、その前衛といわれる表現方法で何かの哲学が歌われていればそれを高く評価しようし、その表現に彼の「言葉」が必然であるとしか取りようがが無い時、むしろ私は身震いしてしまう。

「かものあしけるかとみればけりもせでけらずとみればけりにけるかも」 このパロディは痛烈である。

「けりにけるかも」で決して現代の人生哲学を歌うことは出来ない事実を深く知るべきだ。豊富で、表現が窒息しそうに膨れ上がった歌を作れる人を羨ましいと思う気持ちもあるが、私自身そういう努力をする気はまず起こらない。主題がはっきりしない所で、「哲学」は述べ得ない。

 言葉がその事象を述べるのに、唯一無二の必然が不可欠だなどとは勿論言わないが、少なくとも作品にする以上、作者自身と一人の鑑賞者、即ち最小限二人の間に諒解が生じるものでなければならなぬ。つねに不特定の鑑賞者を意識して彼等との間に諒解が成立する最大公約数の中で言葉を選ぶべきだ。

 「言葉」の諒解の有無が作品の評価に重大な差異を生じる。たとえば、

 

*まとひたる花の明りかそよめきか吾子に譲れぬ椅子ひとつもつ   (○○子)

 

「そよめき」が私には諒解出来ない。従って歌が私に与える衝撃は極めて弱い。この「そよめき」が何か具体的な「もの」に変わっていたなら、私はK・Oされてしまっただろう。

 

*数知れず空にかかりし太陽をはずして探すわが免罪符  (口口子)

 

「数知れず」とは無数のこと、たった一つであるべき太陽をこう言っていいのかに抵抗がある。だが、これを日ごと日ごとに昇って架かる太陽を、それぞれのものとして見ると、作者の数しれぬ過去の苛立ちの日が

はっきりわかる。つまり、この矛盾には関係なく作者と私の間に諒解が成立し、私にとってこの歌は燦然と耀いて見える。しかし、大方の読者にどうかは、別の問題である。ここが私の言う「偏見」である。

 ながながと書いたが意とするところは解かって貰えただろうか。

 次回、視点を変えて論じよう。

 

 

遠慮なく痛烈なご意見をどうぞお聞かせ下さい。

 

 

今日の歌

 

*われは他者 汝悲しかり白哲の額しょうねんに似し裸婦像

 

*老い易きものにあらざる幻のごとき少年わが裡の絵の

 

*しのび逢う月と雲との妬ましく風のあとさき思う独り居

 

*腰痛のしきりなる暗闇のなかひややかにわれは茂吉に耽る

 

*暮るる世に身は寂々と立ちてけり生くることまた枷と思えど