四月十三日(水) 旧い原稿発見
私論「村木道彦」
ーー計算された抒情ーー
「六十年安保」の政治的、革命的リアリズムを到底短歌のものとして諾い
がたく歌から逃げ出した・・と私は以前何処かに書いた。
今、一冊の歌集を前にして私は、こういう行き方もあったのに何故そうし
なかったのかを冷静に考えている。そして村木道彦が当然すぎる位安直
に、かつ、自然に造り出している洒落たダンデイズムを私が持っていなか
ったからだと、やっとわかった,。
要するに彼は正々堂々と、当時の大学紛争(いわば安保の延長線上の
所産だろうが)のさなか、全くそれと関わりの無い磁場で平然と歌っていた。
同世代の多くの歌詠みたちが思想を、政治を、建前を彼等なりに定型韻律
に引き込んでそこを王道として進んでいる時、それは大いに勇気の要る
ことだったろう、と思うのは実は他人の詮索で、彼はのほほんと気儘に彼自
身歌いたいものを歌っていたに過ぎなかったのかも知れない。
彼は干支にして私より一回り若い、いや私が一回り老いている・・・その私
が今、彼を取り上げることに或る種の面映ゆさを感じるのをどうしても禁じ得な
いが、私に二十年の歌のブランクがあったことをしっかり意識してここであえ
て彼をこの道の先進として味わうことをさ程違和感の無いこととして自分を
納得させ本論に入る。
ひらかなの多用によって彼は彼の歌を計算された以上に抒情的にすること
を知っていた。逆に、時たま現れる劃の多い漢字が適度の異物感を読者の
心に投げ掛けることも、である。
かって会津八一が、なにゆえひらがなに固執したか、チョウ空が句読点を
感性の弾発力として用意していたか、此処では触れないが私なりの諒解が
或る。村木の場合のひらかな多用は、よい意味での凭れかかりの効果と、
数少ない漢字を際立たせる効果を狙った様に思えてならないし、彼の場
合それは成功していると思うがどうか。
*するだろうぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほうばりながら
*あわあわといちめんすけてきしゆえにひのくれかたをわれ淫らなり
一首目のなんと軽いこと。失恋の相手に対する思いをこんなに軽く言って
しまっていいのだろうか。それを思い遣りとみる向きもあるが、私はこれは彼
の一種のツッパリと読みたい。
二首目は全部ひらかな書きにすることによって、「淫」の一字がひとしお強調
されて面白い。
彼の狙いはここではなかったのか。これは勿論一首目の「マシュマロ」にも
見える。彼の計算は緻密である。同種の狙いを持つと思われる数首を出してみ
る。
*死を幻(み)るということさえもぎりぎりの生くるあかしとしてわれらあり
*ひくるるやひがしはんきゅうのたそがれは風鈴ひとつならしたるのみ
*ゆうぐれのそらさまざまのあかねぐも色情狂というべくもあれ
*なにもかもあきらめたるというわれに赫ヤク(かくやく)として西陽はさすも
抽出すれば際限がない。彼の作品はこの計算の上に建っていると言っても過言
ではない。
事象を自分の感情として語らせるひらがなの効用をよく知った上で作られ
た短歌は時に危うい。
*生命(いのち)なきものわれを呼ぶ荒廃にうずもれているやさしき洋館(やかた)
*蔵書(ほん)をうりはらいしのちのたましいにしょうじょうとしてなつはきにけり
洋館(やかた)蔵書(ほん)など少し無理に読ませたくてルビを振ったのだろうが
却って浮き上がり過ぎてしまい狙いが的はずれの感無きにしもあらずと思うのは
ひがみか。
*死は宇宙旅行といいし老婆逝(ゆ)きいくばくの現金(かね)・預金・株券
*空想に万(まん)たびおかせし女生徒(ひとり)いて読書会用図書くばるかな
*救済を希(ねが)うこころに降り出でて一夜しのつく雨となりおり
振らずもがなのルビを漢字多用歌ではつけている。つまり漢字に対する信用が、
ひらかなを多用することに希薄になった心理がこの様なルビをつけさせたのでは
ないだろうか。特に「女生徒(ひとり)」は苦しい。苦しいがそうでなければこの一首
は成立しない。こんな所に彼の思わぬ弱点があったりするのを見つけると嬉しく
なるのだから私も真っ当ではないのかも知れない。
福島泰樹がいみじくも言っているように、
<目を細め見ゆるものなべて危きか危し緋色の一脚の椅子>ではまことにつまら
ないものになってしまう。これはまさに
*めをほそめみゆるものなべてあやうきかあやうし緋色の一脚の椅子
だが逆に、
*青春はあわれせつなくおもわるれわずかおとこの液なりしかど
では変ではないだろうか。
<青春はあわれせつなく思わるれ わずかおとこの液なりしかど>まで整えて
ほしかったと思う。
主観で書けば書きたいことは一杯あるが、村木道彦の世界には確たるものがある
ことは
否めないし、その、些かペダンティクにさえみえる歌い口は愛唱に値する。
*水風呂にみずみちたればどっぷりとくれてうたえるただ麦畑
この一首を挙げれば私の書いたことすべてが蛇足になってしまう気がしてならない
思いで一杯である。
1985.5 立木葉司(当時のペンネーム)
付記
最近、丹羽さん、美里さんたちのブログへ行くと、文語、口語、韻律等等について
かなりの論争?がある。それに触発されて、昔々の原稿を思い出した。
この他、岡井 隆論、春日井 建論などあります。
もう時効だから、著作権は関係ないでしょう。暇なときまた載せます。kei