四月十一日東京は雨 | keiの歌日記

四月十一日東京は雨

帰って来て記入しようとすると、長文は消えてしまいだめです。今日はあきらめます.ごめんなさい

かわりに、渡辺 保氏の懇切丁寧な劇評をお借りして記載する。


  2005年4月歌舞伎座

  「娘道成寺」---今が見頃の芸の花

 

 勘三郎襲名二月目の歌舞伎座。

 昼の部の披露狂言「娘道成寺」の白拍子花子がステキな出来栄えである。

 ことに私が感嘆したのはそのクドキ。美しさや持ち味で見せる「道成寺」は他にやまほどあるが、これは踊りで見せるクドキである。その芸の、スケールの大きさ、豊満さ、見事さ、今が見頃の満開の桜。感動的であった。

 まず上手から両手に手拭を持って出たところのしどけなさ、露も垂れんばかりの艶やかさが抜群である。続いて「恋の手習」の裏向き、後姿で決まった所で私は思わずアッと声を立てそうになった。裏向きだから当然誰でも爪先は舞台奥を

向く。ところが勘三郎は左足と腰を捻って、前向きの右足を残したまま裏になった。絶技である。その残った右足の可愛らしさ、そして皮肉な芸の味。しかもそれがケレンでもなく嫌味でもなく体がスンナリと自然にそうなった。ということは勘三郎の今度のクドキが美しさとか持ち味とかいう曖昧なものでく、体を限界まで目一杯使って空間に娘を造形しているということだろう。空間に体の形を刻み込んでいるといってもいい。その造形こそが踊りそのもの。人工の極致である。

 この後の「だれに見しょとて紅カネ付きようぞ」の紅を付ける時の、濃密なしぐさ、「みんな主への心中立て」のまさに男がそこにいるかの如き姿。六代目菊五郎の「道成寺」はここで黒い男の影が見えたというが、その通り。

 さまざまな女の想いから、「怨み怨みて」と鐘を見込みならクイッと気持が溢れてくるまで。いつも見慣れたクドキが、はじめて見るような別世界だった。

 しかもこの芸は勘三郎の体から、これでもかこれでもかとうほど濃密に繰り出されてイキを付く暇もない。そういうとギリギリの緊迫感を想像されるかも知りないが、実はユッタリと自由にノビノビしている。

 この余裕と自信が、今度の「娘道成寺」には溢れていて、どこ一つを取っても絵になっている。その絵のたっぷりした豊饒さに私はしばしば我を忘れて見惚れた。堂々たる「娘道成寺」である。今はどこも桜が満開、しし芸の花はここ歌舞伎座の舞台が一番である。

 後ジテも団十郎の立派な押し戻しと並んで五分の大きさ、立派な二人立ちの錦絵になっている。これでこそ押しも押されもせぬ「十八代目中村勘三郎」。

 昼の部は、この「道成寺」を挟んで前に「源太勘当」、後に「切られ与三」の

見初めと源氏店の二幕。

 「源太勘当」は、海老蔵の平次が上出来。この場の主役はむろん源太だが、源太は肚に一物あって発散出来ないもたれ役、それにかわって芝居をリードするのは平次であり、さればこそこの役に座頭が出る大役である。若き日の五代目歌右衛門の源太に大先輩の七代目団蔵が平次に出たのもそのためである。

 海老蔵の平次は、第一にカドカドの見得がキッパリしていい。すなわち先陣問答の「大音上げ」の竹本で、右手の扇で向うをさしての見得、つづいて扇をかざしての見得、「打ち渡って」で羽織を脱ぎかけての見得、脱いだ羽織を前に廻し

て右足を踏み出しての見得、そして再び向うを指しての見と、全てツケ入りの大時代な見得が義太夫狂言らしい面白さに富む。もっとも源太をかつら桶から蹴落としての見得がなかったのは残念。先人にはここに工夫がある。

 第二に、役柄をのポイントを抑えて安っぽい敵役に徹しての手強さがいい。この若さでこの呼吸を飲み込んだのは偉いものである。

 第三に、「おッかさん、お兄ィさんがいけないよ」といった子供っぽい歌舞伎の入れ事を、違和感なく、スンナリとこなしたこと。これは役柄をきちんと掴んだためと、もう一つは梶原家のホームドラマでの次男坊の我儘勝手、溺愛された末弟の気分をうまく捕えているためである。

 欠点をいえば、リアルに芝居を運ぶためにとかく捨てぜりふが素になること、決まった後でフッと気が抜けることである。しかし今日の海老蔵がここまで出来たのは驚く他はない。

 つづいていいのは勘太郎の源太。むろんこの難役だから

未完成で、痒い所ヘ手が届くという出来ではないが、この役はむろん、先月の、「猿若の初櫓」でも夜の部の「毛抜」の秀太郎でも、教わったことをキチンと正しくやっているのがいい。古典はこの格を守って守り抜くことによっておのづから味が出る。この辛抱が、のちの母延寿との芝居に生きている。

 秀太郎の延寿は肚が薄く、その分情愛が足りない。志のぶの千鳥は、せりふ廻しといい芝居といい、義太夫味皆無で女優ッぽい。

 市蔵の横須賀軍内と橘太郎の珍斎が「お塵がお塵が」をうまくやって、鸚鵡を客席によく通じさせている。

 「切られ与三」は仁左衛門玉三郎のゴールデンコンビ。悪かろうはずがなく、ことに今度は見初めから源氏店と二人の恋の情感が自然にしかも濃厚に出るようになった。サラサラしているように見えて実は熟練の結果、前回よりもいい出来栄えである。勘三郎が鳶頭金五郎を付き合う。蝙蝠安は左団次、段四郎の和泉屋多左衛門。歌江の木更津の茶店の女、源左衛門の五行亭相生、菊十郎の子分がいい。 

 さて夜の部の披露狂言は「籠釣瓶」。勘三郎三度目の佐野次郎左衛門である。

先代勘三郎は、兄初代吉右衛門とは違って、誰からも愛される陽気な次郎左衛門をつくった。だから愛想づかしは哀れに、しかし殺しはガラッとかわって凄味になった。新勘三郎は根の深いコンプレックスを描き、一方では他人の気持に鈍感な人間像を描いている。愛想づかしがそのまま殺しにつながる。それはそれで一つの解釈には違いない。しかしそうなると先代のあの明るさは消えて陰惨にならざるを得ない。後味が悪いのも事実である。

 勘三郎のうまいのは、見初めの幕切れ。「宿へ帰るが嫌になった」がガラリと場面が明るくなったような面白さ。自分の現実とはまるで違う世界にふれて、そこに光明を見出して人生観の変わった男の輝きと飛躍を示してうまい。そのあと吉原雀の合い方にのって体を動かしたりせずに、クイックイッと向うに引かれて夢中で見込んでいくイキが鮮やかである。

 玉三郎の八ッ橋は初役以来の当り芸。しかしどういうわけか、今度は淡泊で生彩を欠く。ことに愛想づかしはほとんど次郎左衛門をなだめつすかしつしているように見える。

 仁左衛門の繁山栄之丞がいかにも八ッ橋の間夫らしく、富十郎の立花屋長兵衛が大きく、段四郎の治六が朴訥さを見せ、魁春の九重が安定している。秀太郎のおきつは車輪になって「江戸」の気質を失う。勘太郎の七越は神妙。今度は見初めに七越の道中が上手から下手へ行くが、これでは後から出る九重、八ッ橋が損な上に、この間次郎左衛門治六が一度下手へ入るのも気が抜ける。

 他に四郎五郎の客引き、源左衛門の太鼓持ち、小山三の女中、升寿の芸者が目につく。芦燕の権八、家橘と市蔵の丹兵衛丈助が手強く、松之丞と時蝶の浪宅の芝居は新作調。守若の新造もギスギスしてよくない。

 この「籠釣瓶」の前に「毛抜」と「口上」。

 「毛抜」は古劇には珍しいせりふ劇、しかも元禄歌舞伎の古風を残しているために、前半兎角退屈になりがちだが、今度は団蔵の八剣玄蕃、権十郎の秦民部、友右衛門の小野春道、高麗蔵の春風と口跡のいい言語明晰な役者が揃って解りや

すく、いつもほど退屈ではない。海老蔵の勅使桜町中将はこれだけの役ゆえ平凡。

 団十郎の条寺弾正は、今回は余裕たっぷり。愛嬌もあって上出来。せりふの高音部で声が割れる一点を除けば、おそらくはこの人の歌舞伎十八番もの中第一の出来であろう。

 時蔵の腰元巻絹は、淡彩で平凡。役の割り振りからだろうが、幕開きを右之助の若菜に代わらせるのはある例だがよくない。市蔵の小原の万兵衛。