keiの歌日記 -7ページ目

万葉の恋歌Ⅴ 奈良大上野教授新訳と今日の歌 一月二十八日(土)



1 自分を迷わした恋という奴にパンチ!

好きだった人のね顔だけでも忘れられるだろうと手を握りしめてぶっ叩いても・・・懲りないんだよねアイツ恋というヤツは!


  面忘れ

  だれにもえやすと

  手握りて

  打てども 懲りず

  恋といふ奴

        (作者未詳 巻十一の二五七四)


  (おもわすれ だにもえすやと てにぎりて うてどもこりず こひといふやっこ)


 この歌の恋は、憎しみの対照である。顔だけでも忘れたいと思っても、どうすることもできない自分は、のヤツめにパンチを喰らわしたというのである。さて、結果はどうであったか。手を握って、パンチを喰わしも、懲りずにまとわりつくもの・・・それが恋だというのである。「奴」は「奴婢』のことで、ここでは恋を貶めていう言葉。それほで憎い、憎いけれども付きまとう、それがこの恋の歌の恋である。


2 あなたの目を見たい

あなたの目を見たくって

この二夜を千年ののように・・・

わたしは恋しつづける


  君が目の

  見まく欲しけく

  この二夜

  千年のごとも

  我は恋ふるかも

         (作者未詳 巻十一の二三八一) 

  (きみがめの みまくほしけく このふたよ ちとせのことも あはこふるかも)


 「男の訪れを待ちこがれる女歌。あなたにとっては、千年の思い・・・ということである。男と生れて、そう慕われれば、朝〈あした〉に死すとも可(か)なりであろう。万葉集では、逢いたいことを「目欲り』とよく表現する。顔のなかでも目を見たいというのは、きわめて直截な表現であるが、目は心の窓なのである。


3 これって、一生に一度だろうなーと思ったとき

 この世に生れて

 これまで恋というものには

 出会ったこともなかった・・・ 

 だから、だから世界の恋のなかで

 いちばん苦しい恋恋をしているのかも

 わたしーーー


  生ける代に

  恋といふものを

  相見ねば

  恋のうちにも

  我ぞ苦しき

       (作者未詳 巻十二の二九三○)

(いけるよに こひといふものを あひみねば こひのうちにも あれぞくるしき)


「恋といふも野を相見(あひみ)ねばは、はじめて出逢った恋ということである。正確にいうと「恋というものなんて、わたしにとっては縁のないもの・・・と今までは考えていたのであろう。だから、苦しいのである。男歌ともとれるが、訳は女歌として作ってみた。


4 ダメとわかって走っちゃうのは、どうしてなんだろう。

遊びいいかげんに

 俺、思っていないからねー

 そう思ったら・・・

 人妻であるおまえを

 慕いつづけることなんかありゃしないさ!


   凡ろかに

   我し思はば

   人妻に

   ありといふ妹に

   恋ひつつあらめや

          (作者未詳 巻十二の二九○九)

(おほろかに あれしおもはば ひとづまに ありといふいもに こひつつあらめや)


 人妻に自分の思いをぶつける男の歌。「凡(おほ)ろかに」はは、「いいかげんに」とか「通り一遍に」という意味。つまり、男がいいたいのは、俺は本気だということである。本気だということをいうために、大げさにはじまっているのである。ダメなことはわかっている。でも、それでも俺は本気なんだ、ということを伝えたいのであろう。


5 エリートの恋

 選ばれしエリート

 その」プライドも

 もう、そんなものありゃしないーー

 恋というヤツのために

 俺はもうくたばっちまいそうだ!


   ますらをの

   聡き心も

   今はなし

   恋の奴に

   我れは死ぬべし

         (作者未詳 巻十二の二九○七)

(ますらをの さときこころも いまはなし こひのやつこに あれはしぬべし)


 恋歌の「ますらを」はいつもメロメロで骨抜きである。「ますらを」とは、武人として、官僚として選ばれた男子であり、エリート意識を持っている。そのエリートが、もうメロメロでダメです・・・というところに、この歌のおもしろさがあるわけで、万葉の時代、人気を博していたようだ。同じパターンの歌が多い。


6 しょせんこんなもんだと思うけど・・・

 世の中ってぇやつは

 いつもこんなもんだと思うけどさ

 懲りずにーー

 また、惚れちゃった!


   世の中は

   常かくのみと

   思へども

   かたて忘れず

   なほ恋ひにけり

          (作者未詳 巻十二の二三八三)

(よのなかは つねかくのみと おもへども かたてわすれず なほこひにけり)


恋というものの宿命を歌った歌。「なほ恋にけり」を「また恋してしまった」ととらえて、俺って懲りない奴だなという三枚目風に訳してある。わかっちゃいるけどやめられない・・・という感じである。恋と失恋、生別れと死別れを繰り返して人は生きてゆくのである。


7 ふと思い出すことあるよ、昔の男のこと・・・


ええい、もう恋なんかするもんかとこころに決めて

いたのに

ーー秋風が寒く吹く夜だけは、アイツのことを

思い出す


   よしゑやし

   恋ひじとすれど

   秋風の

   寒く吹く夜は

   君をしぞ思ふ

          (作者未詳 巻十の二三○一)

(よしゑやし こひじとすれど あきかぜの さむくふくよは きみをしぞおもふ)


 「よしゑやし」は、「ええい、もう」と訳したが、捨て鉢な気持ちを表現する感動詞。恋などするまいと思っていたのび、ふと過去の男を思い出している自分に気づいたのである。ということは、女は過去に痛い目にあっているのだろう。だからこそ、恋はしないと決めていたのである。しかし、秋風が吹く夜だけあ、昔の男のことを思い出すのであった。


8 もうころごり、もうこりごり


 いまさら

 もう来いなんてするもんかと

 わたしは思っているのに・・・

 いったいどこのどいつの恋だい

 つかみかかってきやがるのは!


    恋は今は

    あらじ と我れは思へるを

    いづくの恋ぞ

    つかみかかれる

             (広河女王 巻四の六九五)

(こひはいま あらじと とあれは おもへるを いづくのこひぞ つかみかかれる)


 もう恋などしないと思っていたのに、恋に陥りそうな女の歌。「いづくの来いぞ つかみかかれる」は、こちらから望まないのに、襲われたということである。恋がつかみかかってくるというのは、大げさな言い方だが、突然むなぐらにつかみかかる暴漢のように恋を歌うのは・・・おもしろい。言い得て、妙というほかはない。

才を感じさせる異色の女歌。



前回同様 季刊誌『明日香風』96号 万葉恋歌新訳抄 (奈良大 上野教授訳)に依る



          今日の歌

 

             偶感

 

 

    *長けゆける芽をしぞ思ふ地の上に直ぐ立つ竹の薫りさやけし 

     (長け=たけ)

 

    *亡き妻の居るごとくあり厨辺ににほふカレーのほのあまくして

 

    *一夜さを寝ねもやらずに只管を思ふ汝がことわが逝きし後の

 

    *いたつきに苛まれゆく身にしあらばあと何度の逢ひぞ残れる

          (苛まれ=さいなまれ)         〔何度=なんたび)

    *ほそぼそとややに残れる生涯を机に向かひただ歌に執する

                        〔机=き)       

今日の歌 冬の闇 一月二十七日〈金)

今日は昨日の透析後、疲労感強く、昨日の続きを書き得ません。今日の歌のみ挙げて措きます。

            今日の歌

                冬の闇           

 

       *いたつきにわが伏す傍に陽の射せば鬱は瞬時に心より消ゆ

 

       *虐げているにあらずや汝がこころわが辺にあるを一夜苦しむ

 

       *わがゆめにかかはりのなき夜は来ぬ白き椿の朽ちてゆく間に

    

       *ふゆの夜の闇は涯なし空と地の重ぬるあたりほのあかく見ゆ

 

       *老いらくの思ひすら消ゆ常やみの彼方に星のひとつ墜つ見ゆ

古今集の序② ー承前ー 一月二十六日(木)


ーー承前・昨日の続きーー


 この歌の他に〈吉野の山の桜)そのものではないが、藤原定國の四○の賀を祝う四季を描いた屏風に添えて詠んだ屏風歌で、吉野の山に降る雪を花(桜)の散るところに見立てた、つぎの歌がある。作者名はないが、これも貫之の作であるとされている。


  白雪の降りしくときはみ吉野の山下風に花ぞ散りける(7賀・三六三)

    《大意》白雪の降り積もるころ、吉野山には麓を吹く風に雪が桜の花のように舞い散る。

 仮名序の「はるのあした、吉野の山の桜は、人まろがこころには雲かとのみなむおぼえける」という文章

は、『古今集』に採られた友則の「み吉野の山べに咲ける桜花雪かとのみぞあやまたれける」(1・六○)を散文化したものである。〈吉野の山の桜)を仮名序では「雲」に見立て、友則の歌ではそれが「雪」であるというちがいはあるが、『古今集』巻一春上の配列を見ると、霞、雲に関連させて桜を詠む貫之の歌につづき、友則の桜を雪に見立てる。問題の山の歌(1・六○)を置いている。


      折れる桜をよめる                              貫之

 五八 たれしかもとめて祈りつる春霞立ち隠すらん山の桜を

      歌たてまつれと仰せられし時によみてたてまつれる         貫之

 五九 桜花さきにけらしもあしひきの山の峡(かひ)より見ゆる白雲

      寛平の御時后宮の歌合の歌

 六○ み吉野の山べに咲ける桜花雪かとのみぞあやまたれける


 桜と霞〈五八)、桜と雲(五九)、桜と雪(六○)というふうに、桜と気象現象を取り合わせる貫之自身の歌二首につづいて、友則の吉野の山の桜を雪に見立てる歌を置いている。巻一春歌上の配列の一連の流れと、仮名序の「吉野の山の桜は、人まろが心には雲かとのみなむおぼえける」という記述から、友則の歌の〈吉野の山の桜〉〈1・六○)を連想するのはむずかしいことではない。

 つきにキイワードを抽出して仮名序と友則の歌を対照しておく。


〔仮名序〕         人麻呂  吉野の山の桜     雲かとのみなむおぼえける

〔『古今集』 本文歌〕  友 則  み吉野の山べの桜  雪かとのみぞあやまたれける


 友則の〈吉野の山の桜〉の歌〈1・六○)は、詞書にあるとおり「寛平御時后宮歌合」で詠まれた。青年歌人貫之が宇多天皇の歌壇に登場した歌合だが、記念すべき歌合で詠まれた友則の歌を貫之が人麻呂の歌と

取りちがえているのである。それは不自然ではないか。


人麻呂と友

 

道化の失敗


 貫之自筆の『古今集』というものは残っておらず、現在、読むことのできるのはすべて後世の写本,乃至校本である。だから、その誤りが写本段階でのものか、校正時の改定なのか、またどの時期のなのかを弁別するのは至難のことであるが、仮名序の人麻呂に関する記述は、系統の異なる本がおなじ内容を持っているから、人麻呂が、吉野山の桜を詠んだという文章は、貫之自身が書いたものと仮定出来るだろう。

 ここで、一般にまちがった記述や言い間違いなど、言語表現において人はどのような理由で誤りをおかすかということである。

 筆者の認識に誤りがあるか、書き間違いなどケアレス・ミスであるか(これは文脈からある程度推定出来る)。筆者の誤りには大きくわけてこの二種類がある。

 しかし、これだけが総てではない。もう一つ、あえて誤りを自覚したうえでおかす誤り、いわば確信犯的誤りというもの。

 サーカスの道化は完璧な演技を見せる技量は持ちながら、他の演技を引き立てたり、観客の緊張を一旦緩和してつぎの演技の緊張感を高めるためのわざとの失敗を見せることは常識である。失敗はすべて無自覚であるととは言えず、自覚した上であえてする失敗、いわば〈道化の失敗〉とでも呼ぶべき失敗がある。

道化がロープから落ちる失敗を誰も技量が下手な失敗とは思わない。 

 必要なことは、誤った記述すべてが筆者の認識の誤りと早急に断定するのは危険であるということ。

その記述の筆者が理知的な人物であればあるほど、自覚された誤記、作意のミスの可能性を考えないといけない。

 無自覚なミスと自覚されたミスの判別は困難ではない。他の例証で筆者の知性や常識のレベルを推測することは容易いし、容易に判断出来る筈である。すなわち、仮名序の中の非合理はこの〈道化の失敗〉なのではなかろうか。


「人麻呂」は友則である


以上は一般論である。

「寛平御時后歌合」で宇多天皇の歌壇にデビューした貫之がこの歌合で友則がはじめて〈吉野の山の桜〉をモチーフとする歌を詠んだということを忘れることなど、およそありえない。また、『古今集』編纂のために『万葉集』に目を通している貫之が、人麻呂に〈吉野の山の桜)を詠む歌がないことを知らぬわけがない。

仮名序ににおいて貫之は、誤りだということを知ったうえでで人麻呂と友則を混同しているのである。したがって、これは貫之の「道化の失敗」であると判断することができる。

 考えられることは一つしかない。貫之は『古今集』における友則を『万葉集』における人麻呂に見立てているのである。仮名序にいう「柿本人麻呂」は人麻呂に擬した紀友則である、と結論づけることは早急すぎるか。


もう一つの考え方、人麻呂ーは個人名ではないということ、歌舞伎役者が、能、狂言役者が襲名と称して子供に名を譲ることは芝居等の世界、すなわち俳優(わざおぎ)には当たり前のことである。人麻呂が、歌優(うたおぎ)であったこと、プロの歌詠みだったことは信じられている事実、だったら例えば実子相伝ではなくても、歌優(うたおぎ)の職業は、万葉から古今まで続いていたことは想像に難くない。となれば、当然歌聖と讃えられた人麻呂の名を継ぎたいと次の歌優(うたおぎ)が思うのは自然だし、帝もきっとそう考えられたろう。團十郎が十二代まで綿々と襲名を重ねて来たように、万葉の人麻呂と古今の人麻呂は、だから歌風が違っても少しも可笑しくない。友則=人麻呂も自然である。これはkeiの独断で、なんの文献的証拠はないが、先人の疑問もひょっとしたらこれで氷解する・・・・わけはない〈冗談


                       ー明日に続く


         今日の歌

           

               血脈 

 

    *かよひ合ふ血脈あれば亡母といふいま無き花を乞ふ蝶に似て

 

    *ふゆの夜の夢に顕つひと蝋梅のかぼそき香りあふらしめつつ

 

    *後ろより追はるるわれか風の中はつか聞こゆる声や汝が呼ぶ

 

    *幼な夜に降るごと在りし星群れのかく数も失せ なりぬ寂しく

 

    *父と呼ぶあまたの群れのすでに亡きを憂ふこころに仰ぐ日輪

       

古今集の序② 一月二十五日(水)

存在しない人麻呂の歌について


人麻呂と吉野山の桜 

 仮名序は人麻呂の歌について次のように書く。

  秋のゆふべ、龍田川に流るる紅葉をば、帝の御目には錦と見たまひ、春のあした、吉野の山の桜は、人まろが心には雲かとのみなむおぼえける。(略)

 ならの帝の御歌  竜田川紅葉乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなむ

 人麻呂        梅の花それとも見えずひさかたのあまぎる雪のなべて降れれば

             ほのぼのとあかしの浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ

 《大意》  秋の夕べには、龍田川にに流れる紅葉は帝の目には錦と映じ、春の朝には、吉野山の桜は人麻呂の心に雲かとおもわれたのである。


 文章のあとに引かれている歌は「古注」と呼ばれるものである。『古今集』定家本では、細字で二行に分ち書きされている。古注は『古今集』の成立後、だれかの手によって注として書き加えられたものが本文化したものであろうといわれる。和歌の形式を六分類したくだりの古注に平 兼盛の歌があるから、これは仮名序の成立後に書き加えられたものと考えなくてはならない。しかし、仮名序の写本に「古注のないものは存在せず、後世に加筆された箇所はあるが、古注のすべてがそうであるととはいえず、もともと仮名序にあった箇所を特定できると考えている人もある。

 ここに引いた箇所は、秋の景物である紅葉に感動する帝と、春の景物である桜に感動する人麻呂を一対にしている。この他にも仮名序は対句をしきりに使うが、四六駢儷体にならったものであろう。「帝」と「人麻呂」について触れる仮名序のこのくだりは『古今集』本文に採られた歌を散文化したものである。「龍田川に流るる紅葉をば、帝の御目には錦と見たまひ」に相当する歌は次の<よみ人しらず>の歌である。

本文の歌に添えられた左注と仮名序の古注はそれを「ならの帝の御歌」としている。


        題しらず                    よみ人しらず

  龍田川紅葉みだれて流るめり渡らば錦中やたえなむ

          この歌は、ある人、ならのみかどの御歌なりとなむ申す(5秋下・二八二)


 ところが、帝が龍田川に流れる紅葉を錦と見たまうという分につづく「吉野の山の桜は、人まろが心には雲かとのみなむおぼえける」に相当する人麻呂の歌というものはない。『古今集』にないだけではない。『万葉集』にもない。そもそも人麻呂に「吉野の山の桜」を詠む歌など存在しないのである。


 桜は現在では日本を代表する花になっているが、上代はそうではなかった。『万葉集』には桜を詠む歌はさほど多くない。『万葉集』に多く詠まれている花は萩と梅であって、桜を読む歌は『万葉集』訳四千五百首中の四十二首にすぎない。内裏南面の左近の桜も平安遷都当時は生めであった。『古今集』では梅と桜の歌數が逆になり、一一○○首中、梅の歌二九首に対して、桜の歌は五三首が採られている。

 問題の〈吉野の山の桜〉であるが、吉野には離宮があり、応神・雄略・斎明・天武・持統・文武・元正・聖武の各天皇がここに行幸している。持統女帝は軽皇子(文武天皇)に譲位するまで一一年間の在位中、三年正月の記録を最初に吉野に三一回行幸している。人麻呂には持統女帝に従属して吉野を詠んだ二首の長歌がある(万葉集1・三六・~三九)。しかし、それは離宮のある吉野の讃歌であり、桜とは関係ない。

 吉野の山を詠む歌は『万葉集』には四首しかなく、詠まれた景物は吉野川の滝つ瀬であって、吉野山の雪や水を讃える歌はあるが、桜を詠んだものはない。それは『古今集』において、はじめてあらわれる歌のモチーフなのである。


友則と人麻呂の混同

 吉野の山の桜が盛んに詠まれるようになるのは『新古今集』以後のことであって、『古今集』には吉野の山の桜を詠んだものは二首が採られているにすぎない。これが吉野の山の桜を詠む歌の初出で、作者は他でもない『古今集』撰者の友則と貫之自身である。


〔『古今集』の吉野の山の桜を詠む歌二首〕

     寛平の御時 后宮の歌合の歌                        友則

み吉野の山べに咲ける桜花雪かとのみぞあやまたれける(1春上・六○)

  《大意》吉野の山に咲いた桜の花は雪かと見違えるばかりである。

     大和にはべりける人につかはしける                     貫之

越えぬ間は吉野の山の桜花人づてにのみ聞きわたるかな(12恋二・五八八)

  《大意》

国境を越えて吉野の山に行かぬ間は、その桜の美しさは人づてに噂を聞くのみですーーまだ見ぬあなたの美しさも。

                   =続く=



           今日の歌

 

              夢の誘ひ

 

      *月かげにいざなはれつつ歩む背にかぜはつめたし讒言のごと

 

      *隔り世に祖母と亡母とのならび居て誘ふごとく見するほほえみ

                             (誘ふ=いざなふ)

 

      *身のうちに湧き来る放恣捨てがたく仰ぐふゆぞら走るうす雲

 

      *遠ざかる地平を望み駆けゆくはわがまぼろしの天使ならずや

 

      *帰りなむいざ亡母の手へ夢消えしまま椅子に居る無為の身を持て

展望「万葉集」その2 古今集の「序」について① 一月二十四日(火)

「古今集」仮名序と真名序

古今和歌集には、かなの散文で書かれたものと、漢文で書かれたものと二種の序が伝えられ、二つの序を区別して「仮名序」と「真名序」と呼ばれる。「名」は文字のことで、漢字を正字としたので真の字という意味で真名(まな)と呼び、仮の字という意味で仮名というのである。仮名序の筆者は「古今集」撰者の紀貫之、真名序の 筆者は紀淑望とされる。


 やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなりける。世の中にある人、ことわざしげき 

 ものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひだせるなり。花に鳴くうぐひす、水

 に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか羽をよまざりける。


 (大意)和歌は人の心という種から生じ、無数のことばという葉になったものである。この世にあ

 る人はさまざまな出来事に出会うので、見るもの聞くものにつけてその心情を言葉に表す。人

 間のみではない。花に鳴くうぐいす、川に住む河鹿の声を聞けばわかるように、この世に生きる

 ものすべて歌を詠まぬものはない・・・


 この有名な文章にはじまる仮名序は、常識では考えられない「柿本人麻呂」像を書いている。


万葉集が唯一の資料

 先ず柿本人麻呂のアウトラインを記しておこう。

人麻呂は七世紀後半、天武・持統朝の歌人である。口誦で伝えられてきたやまと歌が、大陸から移入された漢字によって表記することが可能になったのはこの天武・持統朝である。その文化的果実が「万葉集」、そしてそこに登場する代表的歌人が柿本朝臣人麻呂であることはいうまでもない。

 人麻呂の閲歴について直接触れる文献や記録はない。「日本書記」に柿本臣猿(字が違う、出ない)(佐留)の名があるがその実像については人麻呂自身の歌から推測するほかなく、その生死については、諸説あり、此処で云々することは出来ない。

 古今集にも人麻呂の歌があり、その人物の概要も、おぼろげながら記してはあるが、到底同一の人物ではない。なにしろ万葉集と古今集の間には百年を越す年月の流れがあるのだから。

 

 古今集の序に書かれた人麻呂は、厳密に言えば唯一の公的資料に載っている人物である。

 仮名序は、かなで書かれたわが國最初の散文であり、和歌の本質と効用、和歌の起源とその形式の成立、短歌の発達と現況、古代和歌の性格、和歌史と個人評、「古今集」の成立事情とその構成、撰者の抱負について述べる文学表現である。人麻呂についての記述は和歌史について述べる箇所にある。

 そこに書かれている人麻呂は通常考えられる人麻呂像とかけ離れている。仮名序が何故人麻呂をそのように記したのかということがクエッションである。

 仮名序の、人麻呂について述べる部分を引いてみる。

・・代々の帝(みかど)は、四季折々の事象につけて喜び悲しみを歌に詠まれた・・という意味の文章につづくものである。


〔仮名序〕

 いにしへよりかく伝はるうちにも、ならの御時よりぞ広まりにける。かの御世や、歌の心を知ろしめたりけむ。かの御時に、おほきみつのくらゐかきのもとの人まろなむ、歌の聖なりける。これは、きみも人も身を合はせたりといふなるべし。秋のゆふべ、龍田川に流るる紅葉をば、帝の御目には錦と見たまひ、春のあした、吉野の山の桜は、人麻呂が心には雲かとのみなむおぼえける。

又、山の辺の赤人といふ人ありけり。歌にあやしく妙なりけり。人麻呂は赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麻呂が下に立たむかたくなむありける。

 奈良の帝の御歌 龍田川紅葉乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなむ

  人麻呂      梅の花それとも見えずひさかたのあまぎる雪のなべて降れれば

              ほのぼのとあかしの裏の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ

   赤人       春の野にすみれ摘みにと来し我ぞ之野をなつかしみ一夜寝にける

             和歌の浦に潮みちくれば潟をなみ蘆べをさして鶴鳴きわたる

 この人々をおきて、又すぐれたる人も、くれ竹の世々にきこえ、片糸のよりよりに絶えずぞありける。これよりさきの歌をあつめてなむ万葉集と名づけられたりける。


〔真名序〕

 然れども、なほ先師柿本大夫といふ者あり。高く神妙の思ひを振ひて、古今の間に独歩せり。

山辺赤人といふ者あり。並びに和歌の仙なり。その余の和歌を業とする者,綿々として絶えず。


 要点は、

①「ならの御時」に「おほきみつのくらゐ」(正三位)柿本人麻呂は歌の聖であった。

②歌のことを理解する天皇と歌の聖である人麻呂は「身を合わせ」た。

③天皇は「龍田川に流るる紅葉」の歌を詠み、人麻呂は「吉野の山の桜」の歌を詠んだ。

④人麻呂は赤人の上に立つことはむずかしく、赤人は人麻呂の下に立つKとはむずかしかった。


この四項すべてが誤りか、意味不明。理解しようとすれば、相当の言葉を補わなければならない。推理の焦点は『古今集』の仮名序の中でなぜ奈良遷都以前の人に違いない人麻呂を、「ならの帝」と同時代の人物であるかのごとく書いているかということにある。また人麻呂に吉野山の桜を詠む歌はないが、仮名序が人麻呂が吉野山の桜を詠んだと述べていることにもある。推理の対象とするのはもっぱら『古今集』の仮名序の人麻呂である。

 

 仮名序の人麻呂に関する記述は、官位、時代、作歌等についてことごとく誤っている。平安時代には人麻呂についてその程度の認識しかなく、貫之が人麻呂に関してまったく無知であったと考えればすむことではあるが、人麻呂と「万葉集」について、貫之はそれほど無知だったのだろうか。仮に貫之が人麻呂についてまったく無知だったとしよう。人麻呂の詠んだ歌のモチーフを「吉野の山の桜」と限定するのは、記述が具体的でありすぎる。よく知らぬことを書く場合は、もっと漠然とした記述になるのではあるまいか。そして、何よりも仮名序の誤りが人麻呂について述べた箇所に集中していることに、おおきな不審を抱かざるおえないのである。  

  (ここまでの大意は 織田正吉著 『古今和歌集』の謎を解く 講談社発行 に依る)



       今日の歌

 

                冬空無限 

 

     *おそ冬の昼のたゆたひ窓の辺に置かれし椅子に坐さむ一とき

 

     *ふりかへりざまにねらはれゐるわれの結滞しつつよわる心臓

 

     *花の散るのちの思ひにひとときは淫けりたり春近き樹のした

 

     *戴星のいきいきと在り ふゆ芝のみどりに映ゆるなかの疾走

       (戴星=うぐたひ=眉間に白星のある駿馬)

 

     *空を抱き寝ぬる冬夜のさみしさを埋むごとくに鼓動ひびきぬ 

    (空=くう)     、    

展望「万葉集」その1 序に換えて 一月二十三日(月)

万葉集は興味深いが難しい。敬愛する梅原 猛氏の著作の色々を辿りながら、なにか得られないかと、思い切って手を染める。また、何時ものごとく途中で投げ出すことになるだろうが、許されよ。

 梅原氏といえばどうしても柿本人麻呂を避けては通れない。また、そこから着手するのが一番手っ取りはやい。

 先ず、イメージ表現としての日本語、と題する小渕昭夫氏(1944年、宇都宮市生れ。フランス文学者。慶大助教授ー1956年現在ー。著書『わが思索のあと』、訳書『晩年のリルケ』)との対談から入ろう。

 その為、屡々出てくる略体歌、非略体歌について述べなくてはならない。

 万葉集の表記論的な研究、つまり三十一字の日本の歌をどうやって中国の字で書き表すかということだが、いろいろな表記の仕方の変化があるのだ。特に人麻呂歌集は表記的に大きな特徴を持っていて、二つのタイプがある。一つは略体というもので、助詞,及び助動詞,動詞を全部省く。

 例えば

  春楊 葛城山にたつ雲の

  立ちても坐(ゐ)ても妹(いも)をしそ思ふ

というのを、

  春楊 葛山 発雲

  立座 妹念(二四五三)

 と全部で十字で書く。これを略体歌と言う。特に巻十一に多く並んでいる。次に

  子らが手を巻向山に春されば

  木の葉しのぎて霞たなびく

という歌を、

  子等我手乎 巻向山丹 春去者

  木葉凌而 霞霏薇(一八一五)

と書き、「子等、巻向山」とテニヲハが表記してある。これを「非略体歌」と名づけてあるが、そうすると略体歌が平均十三字、非略体歌が平均十八字ほどになる。これがどいうふうに関係しているかと言うことが、今までの万葉学者によって非常に詳しく研究されてきた。

 その結論として、先ず略体歌が先にこしらえられて、次に非略体歌がこしらえられた(東大稲岡耕二氏説)。

 ややこしい長い説明になったが、これを踏まえて爾後書いていこう。


 契沖という徳川時代の國学者が、彼の師、下川辺長流の遺志を継いで「万葉集」の注釈を書き、「万葉代匠記」という本を出す。これにより長い間忘れれられていた「万葉集」が復興し、あの難読な万葉仮名で書かれた万葉集がはじめて近代人に読めるようになり、そこから近代の國学がはじまったわけである。

 長流が「万葉集」に目をつけたのには、かの水戸光圀が長い間顧みられず放って置かれた万葉集を悲しんで、長流にその復古を依頼したのだ、という話が残っている。(梅原氏講演”日本学の哲学的反省”参照)

 以後、現代に到るまでの日本の「万葉集」学はほぼ契沖の解釈の範囲内で動いていたと言っても過言ではない、と梅原氏は述べている。


 それ等によると、万葉集は「古今集」の序文に、大同元年(806)に平城天皇によって撰せられた勅撰集だったということが書かれているのが最初。これはかなり確実性が高い。

 ところがこれと全く違う一つの証言がある。いちばん古くは「栄華物語」に述べられている説、天平勝宝五年、橘 諸兄等によって作られた歌集だというのだ。「栄華物語」とは、藤原道長の栄華を中心に、プライベートな物語のかたちで当時の歴史を述べているもので、かなりの信憑性があるのではないかと梅原氏は言う。(歴史書であるから、と言うのだが果たして頭から信じていいのかどうか甚だ疑問=私註)


 このあたりで「古今集」の序(これまた"仮名序、真名序”への説明がややこしい)。を少し覗いてみよう。

 明日から古今集に踏み込んで行って見る。

                                         ー続くー


       今日の歌

 

             死せる蝶

 

 

     *蔑するにあらね一重のつばきばな吹き寄る風のこの冷たさは

 

     *うちを這ふひとつの思ひこころにもなきにくしみは性欲に似つ

 

     *緋のジャムを塗りつつ麺麭の耳を削ぐ朝ぼらけ嗚呼今日も一日か

                   (麺麭=パン)

     *聡き眸に背かれて在りわれはいま歌に溺るるまま死せる蝶

 

     *目くらまし立てるわが歌ひそやかな侮蔑のなかに戦ぐ樹に似て

万葉集解読の試み(奈良大 上野教授の論) と今日の歌 一月二十二日(日)  

 

万葉集の始まりの歌は…… ~若菜摘みの歌~

 天皇の御製歌
 籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます子
 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ
  しきなべて 我こそいませ 我こそは 告らめ 家をも名をも
  (雄略天皇 巻一の一)


 新春の若菜摘みの行事に参加している娘たちの持っている籠とヘラを天皇が褒め、次には娘たちから名前を聞き出そう、とするところから、この歌は始まる。古代においては、男性が女性の「家」と「名」を尋ねることは、求婚を意味していた。家と名前を教える、ということは、結婚の前提となる「よばい」を受け入れることになるからである。それを、劇仕立てにしてせりふにすると、こんなふうになるであろう。

 見よ、大和はすべて私が君臨している国だ。すみずみまで、私が統治している国だ。それでは、私から名乗ろうぞ!家も、名も……。私の名は、泊瀬の朝倉の宮殿で天下を治めているオホハツセワカタケルノオホキミだ!

 つまり、この歌は大和の覇者・雄略天皇の名告りの歌なのである。おそらく、新春の若菜摘みは、大和王権においては豊作を祈る大切な農耕儀礼で、その儀礼には大王(天皇)が出座して、名告りを行う─ということが毎年行われていたのだろう。そして、その場で若菜を食することが、大和に君臨する大王の統治を表象する儀礼となっていたものと思われる。統治する土地を代表する美しい娘子を妻とし、その土地で生産された食物を食べることが、その土地の統治を目に見える形で表象することになるからである。

 しかし、不思議なことに、プロポーズの結果は、この歌からはわからない。振られたのだろうか。そんなことはあるまい。儀礼や劇ならば、娘たちが寄り添う姿を見せれば、事足りることである。つまり、この歌は大和王権の新春の儀礼の台本のような役割を果たす歌だった、とも考えられよう。

(奈良大 上野誠教授に依る)


0001 雑歌
泊瀬朝倉宮御宇天皇代 太泊瀬稚武天皇

天皇御製歌(雄略天皇)

籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母

こもよ みこもち ふくしもよ みふくしもち このをかに なつますこ いえきかな のらさね そらみつ やまとのくには おしなべて われこそをれ しきなべて われこそませ われにこそは のらめ いへをもなをも

籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます児 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ居れ われにこそは 告らめ 家をも名をも
ちなみに”源歌”読み現代語記載を記して置きます。
       (匿名氏のブログ”一日一歌 万葉集”に依る)kei記
 
        今日の歌 
 
          山茶花に寄す
 
    *からみ合ふ花ばなの佳し物言へぬまま奔放に葉を揺らしつつ
 
    *陥穽に落ち入りたるかふかき闇に 冬の冷雨のこころに痛し
 
    *みぞれ降るなか山茶花のしおるれば時を違へてのこれ 月明
(違へて=たがへて)
 
    *朝風呂に身潜ませつつしみじみと思ふ老とは朽ちてゆくこと
 
    *立てわが詩よ 語れ思ひを遠ざかる面影はみな暗きふゆ薔薇
       

 今日の歌 冬の夜風  一月二十一日(土)

                  今日の歌

 

                冬の夜風

 

     *樹々の影濃くしつつ此の夜のなか月は激しき容貌を見すなる

                                  (容貌=かほ) 

 

     *星どちの悲は知らずして空に向き冬深更のやみの雄焚叫び

 

     *何気なきつぶやきひとつ詰られて夜風にこころ冷えゆくも 冬

                  (詰られ=なじられ)

 

     *おそ冬のかぜのごとしも耳を抜け夜ぞらへいたるひとつ 風説

 

     *かりそめのいかりと思へふゆの夜のふかきにとよむ街の喧騒

万葉の恋歌Ⅳ 奈良大上野教授新訳 と今日の歌    一月二十日(金)

やく

万葉恋歌新訳抄 Ⅳ


ウソでも、やさしい詞をかけられたい・・・

 

恋ひ恋ひて 逢へる時だに 愛しき 言尽くしてよ 長くと思はば  (大伴坂上郎女 巻四の六六一)

                 (愛しき=いつくしき) (言尽くし=ことつくし)

 恋しくって、恋しくって


やっと逢えた今だけはね


やさしい言葉をかけてちょうだいよ・・・


長く付き合いたいのだったらさーー


 前の歌に続く歌。彼女の彼氏は、言葉での愛情表現が下手だったようだ。黙りこくった男に、ちくり針を刺すように不安を述べた歌である。心の中では「あんたね、こんなときだけはね、ムード出してちょうだいよ」と思っているかもしれない。それを、「今、この時」だけは、と歌っているところがミソ。


⑧年上の彼女から、「わたしがおばあちゃんになっても愛してくれる?」といわれたら・・・


百歳(ももとせ)に 老い舌出でて よよむとも 我はいとはじ 恋は増すとも (大伴家持 巻四の七六四)


  そんなこと疑ってんのかよーー 

 

  おまえさんが百歳になって・・・ベロ出すようになって 


  歳とって百歳になって


  腰が曲がったってさ


  --俺、お前の家に来ることはいとわないよ、


  好きだーってぇ、気持ちが増すことはあってもさ

                               

大伴家持が、紀女郎の歌に答えた歌である。家持の恋人の一人であった紀女郎は、なんと彼より十五歳も年上。当時の年齢から考えると、姉というより母に近い年齢であろう。彼女は、疎遠になってゆく家持に、たびたび自分への思いを問いただす歌を贈っている。気持ちを疑われた家持が答えた歌の一つがこれである。「そんなこと疑ってんのかよーー」は、家持の気持ちを斟酌して、補ったもの。

                                      (奈良大学教授 上野 誠氏訳)


                                      ー終わりー



  以上、四回にわたって紹介したのは、季刊雑誌「明日香風一月号」からの抄出である。続きは次号を待たねばならないが、興味をお持ちのお方は直接出版元へお問い合わせ頂きたい。


発行所 財団法人 飛鳥保存財団

 〒634-0138

  奈良県高市郡明日香村大字越13-1

 TEL 0744-54-2524


今日の歌 

  

               

                  ある感慨

 

      *昨の夜は月あかあかと風花を飛ばしつつその翳を厚くす

 

      *月明に燦たり孤葉揺らしつつ樹つひいらぎの意思の確かさ

 

       *つづまりは吾ひとりなりいささかのひや言にまた友を失ふ

 

       *考論の爆ぜたり冬の夜の果てにしみじみと知る人の怒りを

 

       *浅きゆめ掌に遊びつつ失ひしもの懐かしむ冬の星群れ

万葉の恋歌Ⅲ(奈良大 上野教授新訳) 一月十九日(木)

万葉恋歌新訳抄 

⑤噂ばかりするヤツは、くたばっちまぇー

 

あらかじめ 人言繁し かくしあらば しゑや我が背子 奥もいかにあらめ(大伴坂上郎女 巻四の六五九)


  はじめっからさぁ

 

  みんなわたしたちの噂でもちきりよーー

 

  そんなことじゃ

 

  コンチクショウメ!

 

  アナタ、この先、いったいどうすりゃいいの


  よ・ ・ ・


 作者は、大伴坂上郎女、大伴旅人の異母妹であり、大伴旅人歿後、大伴一族のゴッド・マザーとなった。

「恋の噂はお茶を美味くする」というが、人はこの噂にどんなに傷つき、そして悩んだか、いな、悩んできたか。今も昔も変わらない。その噂に手を焼いた女の声である。



⑥わたしを信じるの? それとも噂を信じるの!

 汝をと我を 人ぞ放くなる いで我が君 人の中言 聞きこすなゆめ (大伴坂上郎女 巻四の六六○)


   あなたとわたしを

 

   引き裂こうとしている人がいるのよ・・・

 

   だから、だから、お願いあなた、

 

   人の言うことなんて聞いちゃダメーー

 

   絶対!絶対!けっして!けっして!

 

 前の歌に続くうた。「中言」とは、他人の仲を裂くために流される噂、誹謗中傷をいう。彼女は、よほど噂に苦しんだのだろう。だから、男に対して、念を押すかたちで、歌っているのである。しかし、残念なことに、男の名も、噂の内容も、今となっては」わからない。

(奈良大学教授 上野 誠教授訳)

                                                

                                                  ー続くー

              今日の歌

 

              夢の情死行

 

     *夢に逝くわれとをみなの情死行は冬ざれの灯のまたたきに似つ

 

     *たゆたふはあやしき夜をひびき合ふたましひかそは冬の銀月

 

     *眠りとは甘きに向かふぬばたまの夜に伏せ居る影にさも似つ

 

     *冥界も雪降りつらむキラキラと光りつつ墜つ此の世の此処に

 

     *逝きしもの残りしもののへだて無く風花は舞ふ泣けとごとくに