keiの歌日記 -34ページ目

四月二十八日(木)塚本邦雄の短歌「天変の書」 続き



(承前)


*歌生るるとて曇日のこころゆきまよへり水のかなたの貝母(ばいも)

 貝母についてなにも知らぬ。アミガサユリというユリ科の植物、水辺に咲くのか。或いはとおい彼方の幻影に視えたのか。曇って鬱な日に生まれた歌が、なんだか遠い花を幻視するような暗い歌になった感慨か。


*青鷺はあかときの水渉(わた)りつつそれも死にかかはるささやきか

 前歌と同時に出来たらしい。青鷺のイメージは、たとえば、死者の使者のごとき暗い灰色の鳥、両者を比肩して据えるとその思いがはっきりする。


*ひひらぎの花かすかなれわれはわが肩噛む白き疳馬を愛す(カンの字が違う。許されよ)

 この馬に髣髴とする或る顔が浮かぶ。多分、誰でもわかるだろう。あの人です。


*ああ樹氷こよひあまりの寂寥に恋の二人ぞ透きとほりける(氷の字が違う)

 さびしさのあまり、二人して消えてしまいそうな雰囲気がよく解かる。醒めかけた恋かな。普通は情熱と同意語の恋だから、樹氷と恋はそぐわない筈だけど、斯く歌われると、すんなり諒解出来る。


*立春の空酢の色に楽器店までのかをれる五百メートル

 確かに酢の香は強い。が、五百メートルを薫り続けるのはどうか。恐らく、なにかスッパイ思いに胸一杯だったのだろう。


*飢うるは何たるやさしさぞ女童(めわらは)がわがシェパードと遁走曲(フーガ)聴きをる

 騒がしく遊んでいた女の子と犬が、急に静かになってフーガに聴き入って居る。空腹が激しくなったのだろう。飢餓は大げさだが、確かに腹が減って来ると何もしたく無くなる。日常詠もこう読まれると美しい。


*蛍はや何にまたたくみづからの咎あまねくて枯るるは言葉

 わが身を蛍に置き換えての歌。スランプであった一時期の思いが強く伝わって来る。


*黄落(くわうらく)のかつはなやかに萬象はここ過ぎておのれ頼まざらむ

 前歌と並列に鑑賞すると味わい深いものがある。


*秋やわが白きひかがみ父として渉り来し水萩をうかべつ

 人生の黄昏期に来ての、父としての遣瀬なさがよくわかる


*青盲の母ぞありける遠き陽を蜂蜜いろの月とのたまひ

 青盲には二意ある。即ち、明盲と青黄色盲の。この場合は後者。視力全体に弱り、太陽の輝きも月のごとく柔らぎ、かつ,そのものの黄が青っぽく輝いて、蜂蜜色に見えた、極めて厳密な写実であることに感心せざるを得ない。塚本にしてこの写実、すごいと思う。


*八方に敵、わがかひなつゆくさのごときを抱へほろびゆくなり

 珍しくひらがな書きの一首。コンマ一つにアクセントを置き、画数の比較的すくない漢字もよく目立つ。


*みなづきここに尽(本字で)くこなごなのシャンデリアより静脈のごとき電線

 歌意も画数多い字でのアクセントなど、前歌と同じ狙い。ふとした時の自信喪失を彼らしく歌って佳吟。


*あかがねの夕映走るわが髪膚母よりほかの女(をみな)おもへと

 巻末に来ての一首。人生の終末期に来ての感慨。マザーコンプレックスをまだ捨て切れない男心の悲哀?。


輯を閉じるに当って、跋より少々曳こう。


・・・「十二」とは殊に私の愛着の深い数字である・・・歌集標題を案ずるにあたって、この感慨は更に深かった・・・(この歌集は塚本の十二番目の歌集である)・・・短歌なる詩形がいかに特殊であり、いかに困難を極め、かつまた日本語の母胎、根幹として、恐るべき力を秘めてゐることが、身に染みて感じられる。言語芸術は勿論叡智の所産であるが、韻文定型詩が形を成し、生まれでようする言語空間は、明らかに知性の介入を許さぬやうな気象学にも、大いに支配されてゐるやうだ。精妙巧緻な技法と、稀有の秩序と調和なくしては成立せず、しかも歌はそれらを超えた非合理の、真空状態で一瞬に調べを得るのではあるまいか。

 言葉の遊燕流動する宇宙の、「天変」とも呼ぶべき透明で神々しい暴力が、単なる言葉に新しい命を与へ、一篇の詩歌に変貌させる。殊に短歌はその時に発する最も美しい詩語の火花と、結晶と、そのしたたりであると言ふ他はないだらう。・・・云々


非常に示唆に富んだ謂で、歌に詰まった時など再三再四有り難く読んでいる。



今日の歌

*滴らす櫻花(はな)は未練か 光り射すなかに動かぬ樹より掌に受く


*絆には藍こそ佳けれはるかなる里辺の今朝も咲くや”あじさい”


*生くることひとりに如かず春嵐のなかにやさしき盾か 霧雨


*えにしとは無常の謂か 逆光の画布にはげしく裸婦乱舞する


*ししむらの白きうねりをおもうかな春雷はいま揺する故郷を


*撓う身を顕たしむなかれあかね空五月望たりかぜのかなたに


*まぼろしの頬ほの見えて一脚の椅子を窓辺に片寄せぬ 夜



ご意見・コメント等是非お寄せ下さい       kei

四月二十七日(水)塚本邦雄の短歌  「天変の書」



「天変の書」 第十二歌集  1979年7月  書肆季節社 刊



*石鹸に刹那薔薇の香うつされてこの風邪二十日(はつか)癒えざるべし

 いい匂いのする石鹸を使っているキレイな人から伝染された風邪なら、そんなに早く治る筈がない。二十日にわざわざルビした意味判るかな?古今,新古今で繁用される”はつか”に掛けてあるのだ。


*袖冴(さ)ゆる氷室守(ひむろもり)とよ實櫻の一つのこりてそれも血の色

 冴え、氷室はこんな字ではない。どうしても此処へ記すことが出来ない。目を瞑って口称して下さい。調べの良さに酔って下さい。歌は字面(じづら)を鑑賞するだけが能でなjことを判ってほしい。


*悲しみのもなかにありて伊勢乙女(いせをとめ)こよひ紅梅の實を煮るといふ

 何か裏がある筈と懸命に考えたが、どうしても判らなかった.例のごとく目を閉じて口称して韻律を鑑賞する。


*真水の香突如するどし八月のであひがしらにこの百合鴎

 百合鴎は川面に棲むのか、海面に居るとばかり思っていた。海水の香なら判る気がするが、真水の香ってどんな香りか想像すら出来ない。


*檸檬爆弾(レモンばくだん)仕掛けて帰るわかものかねがはくはこの夜青き霜降れ

 食べかけのレモンが数個入った網袋をぶらぶらしながら、青年が傍らを通ったのに触発されて出来た歌だろう、なんて勝手に想像してしばし楽しむ。ただ、青き霜降れが、理解不能。


*託すべきことばのひとつ父死して夕星(ゆふづつ)天に席さだまらず

*黄葉(くわうえふ)の若狭にありて書きおくる母死にき鸚鵡死にき

 虚か實か、同時に書いてあると、些か迷う。二つとも、訃報を他に知らせねば、という歌。ふたりに対する情愛にかなりの差が伺える。


*歌はずともかくほがらかにながらふる夏百日のからきなみだ

 表面は明るく見せて朗らかにしているが、さすが、泪は鹹い。


*なかんづく萩散りみだるよその秋いまこゑ嗄(か)るるばかり汝が欲(ほ)し

 これだけ率直な求愛の歌は全歌集中、他にない。なんの衒いもなく、真っ直ぐに欲しいのだ。


*ここより先はうつつはつなつ薄明に一人の夢の藍の芍薬

 初句七字。見事にしらべが通してある。意味はどうでもよい。これも、韻律を楽しむ歌でしょう。

                     ーーー この稿未完ーーー



今日の歌


*明日こそあらめわが詩は窓の縁に薔薇落日に酔いしのけぞり


*鷲づかみなせりむんずと春の野に措きわすれたる愛か桔梗を


*はるは病むや満天銀砂そに熱を奪われてわがししむらさむし


*汝がもてる花こそ佳けれ匂い顕つ過去紫陽花の愛に包まれ


*耽り居れば春の陽のごと輝ける詩あり謂あり「出エヂプト記」


*優しさの欲しきよひそか遠のきて凝視れば夕焼けは血の色


*さみしさにわが恋う月も無きはるの夜ふと酔いぬ自死の誘い


*いちにんの死のありありと見ゆること辛し天狼星のかげりは




四月二十六日(火)塚本邦雄の短歌  「閑雅空間」

「閑雅空間」 第十一歌集  1977年6月20日 湯川書房刊


*壮年の今ははるけく詩歌てふ白妙の牡丹咲きかたぶけり

*女逐ひてうつつなかりし 六月に見ず八月に見たる紫陽花(あぢさゐ)

 こんな感じでこの歌集は始まる。そんなに手ごわくはなさそう。


*柘榴の膜にがしそれより若者のにがみはうすれつつ露のチエロ

*背黄青鸚鵡(せきせいいんこ)になんぢヘブライ語教へ日日に迎ふるつひの晩餐

*夕闇に鶴たつたつた今われの耳のうしろに火のかをりして

 柘榴、鸚鵡、鶴の必然が不明(鸚鵡はまだ判らぬでもないが)。この様な突然の無関係の名詞を入れて、歌意を不可解にする技法もしばしば」見られる。意図」して難解にするのも彼の特徴。


*故郷は杉鉄砲の弾丸(たま)かをりわれも死者いきしちにひみりゐ

 ここにいきしち・・が出てきた。ここは、死者に掛かる生き、だから満更無意味ではない。


*初霜の地に籠の蛍振りおとす母やはや おこそとのほもをろを 

 おこそとの・・・の必然が判らない。単なる語呂合わせとしか理解できない。彼にしか判らぬだろう。あえて理解の外へ読者を立たせてほくそ笑んでいるのか?。


*夏櫨(なつはぜ)に不可思議の紺ただよへり歌なすなべて穢れし者ら


*ふるさとは杉鉄砲の弾丸(たま)かをりわれも死者いきしちにひみりゐ

 いきしちに・・・前の歌と対になる形。ならべても理解の外である。


*夕霜に枯るる茗荷のこゑきこゆ人なるわれの枯るるひびきは

 枯れる声は茗荷,枯れるひびきは人なるわれ、逆想である。これがおこそと・・・いきしち・・・なのか?


*仏飯に菫の匂ひ愛人に刺され赤光まとひて死せり

 茂吉への関心は強かったと聞く。どこまで深詠みが許されるのか。それをするだけの時間も資料も残念ながら持ち合わせていない。


*昼花火めつむりし時しろがねの鎖わがこころに沈みたれ

 昼花火だから、目を開いていても見えない。あえて目を塞いで聞いた、こころの中へ沈み行くプラチナの鎖はどんな音をだったのだろう。聞いてみたい気がする。


*子が空色の長沓穿きてちちははの知らぬ真夏の死にむかふなり

*母の綺羅さむざむとして向日葵(ひまわり)の枯れつくすまで七十五日

 母子心中?ではないだろうが、二首対比させると、色々な景色が想像出来て興味深い。が、何が言いたかったのだろう。本音は当然うかがいしれぬ。


*歌はずば言葉ほろびむみじか夜の光に神の婚のおもかげ

 言葉と歌に対する自負がそこはとなく見え隠れする。吾こそ歌わずばの気概が知れる。


*殺意よりややうすき藍たなびきて友来る 刎頚の友来るあやふ

*葬送の汗の杉の香悪友の一人あやしく生き残りける

一首目、殺意と刎頚という不気味な言葉と親友との対比の可笑し味。あやふと止めざるをえないユーモア。

二首目、生き残った友、それもあやしく。殺意より薄い愛だったのに首切れなかったユーモア。


*夏櫨に不可思議の紺ただよへり歌なすなべて穢れし者ら

何たる自信。自分以外の"歌為すすべてのものは穢れて居る”との断言。一言も無い。少なくとも私には。


*霞へだてて遊ぶ二つのいかのぼり父にかくし子母には連れ子

 この歌集随所に父母にたいする複雑な思いの吐出がある。前にも言ったが、歌人の多くに見られることではあるが。


歌集の最後は外遊詠が多い。概してつまらない、割愛する。


終わりに、跋 反閑雅空間論から数行を曳こう。

 歌とは何か・・・この特殊な存在の意義を解明しようと試みた。私も亦、心と言葉の融和と相克に関して、常に新しい疑問を提出し、みづからそれに答えて来た。


    夢の沖に鶴立ちまよふ 言葉とはいのちをおもひ出づるよすが


 しかしながら、「歌」は、他のいかなるものにも、決して換言できない、転換不能の、あまりにも純粋、無限定な価値を有(も)つ魔的存在として、人と共に生き続けて来た。云々。


 此処に来て未だ半分にも及ばぬ残量を抱えて途方に暮れてている。投げ出す訳にもいかず、続けるが、ブログが途中で飛んでしまい、はじめから遣りな直さなければならぬこと度々で、無駄な労力を費やすのが辛い。三行ごとに保存入力しなければならず、ついうっかりすると、パーになる。早く改善して欲しい、と余計な愚痴を、許されよ。




                                

                                   

四月二十五日(月)塚本邦雄の短歌 「されど遊星」

「されど遊星」 第十歌集 1975年6月20日 人文書院刊

 

*あはれ知命の命知らざれば束の間の秋銀箔のごとく満ちたり

 知命の命知る の対比、銀箔のつめたい綺羅と秋の比喩、其の二点でこの歌立ち上がって来る。素直に心へ入って来る歌。

 

*風立ちて恋は微塵の松の花空ゆかざりしもの地に零(ふ)れり

  堀 辰雄が下敷きに在る。 恋 と微塵の松の花 恋も長寿も微塵に砕け、地に零ぼれてしまう儚さの機微がうまく歌われて、読者の心に染みてくる。

 

*もてあそぶ言葉や露のゆふぐれに残んの蓼のみだるくれなゐ

 人生残余を思う時、歌や詩(もてあそぶ言葉)たちのは蓼(辛辣で苦く)のように乱れてしまう。(この数首前に詩歌枯れたりとありうまく対比させてある。)

 

*散文の文字や目に零(ふ)る黒霞いつの日雨の近江に果てむ

 珍しく望郷の歌、”わたくし”を隠し続けた彼がふと見せたこころの隙?か。雨の故郷で全うしたい、とは少し弱気になり過ぎ。何かこころ動くことが在ったのだろう。

 

*萩は萩のめぐりに散りてちりはつるわが愛恋のもとより夕闇(ゆやみ)

 萩は此処の場合二人を指す。比翼の二人は愛しあって散り果てる、美しいではないか。美しさを失わせない為に、終句をわざわざ”ゆやみ”と無理読みさせて五音にした。塚本がである。愛唱に値する名吟。

 

*視野狭窄すなはちほそるこころざし見ぬ世にかすむ冬の曙

 私事であるが、眼科医であるため、眼科用語が詠まれているとつい留まってしまう。だが思うにこの歌は机前でのものであるまい。ふとした折に口をついて出たのであろう。調べが良い。老年になりつつあると眼はかすむ、おそらく"あの世”でも冬の曙のように灰色がかった世界にしか見えないのだろう。段々志も小さくなってきた。

 

*幽玄のかくなりはつる夏ゆふべ糸杉の秀(ほ)ぞみどりを紡ぐ

 段々心細くなってくる将来に考えが至ったときの感慨だろう。糸すぎの穂先の僅かなみどりにかすかな希望がほの見える。

 

*えらばれてはだしの男はつなつの寺院金箔もて繕へる

 珍しく叙事歌。古寺の修繕をしている男に初夏の日差しがきらきtら照り映えている様が自然に浮かんでくる、かれの数多い歌の中でも例少ない歌と愚考する。

 

*はかなき言葉につかへさるすべり散りぬ奴僕(ぬぼく)の一生(ひとよ)も一夜(ひとよ)

道寿の"山王の山の紅葉や百日紅”が潜意に在ったのだろう。自分を詞葉の奴僕に措いて冷やかな目で所詮儚い人生の悲哀を吐露したのだ。

 

*青天の蒼昏みつつジュリアーノ・ジェンマが滅多殴ちのふともも

 この頃、所謂マカロニ・ウエスタンが流行。ジェンマはその美貌に似合わぬ筋骨の逞しさで人気を博した。その肉弾相打つ決闘シーンが評判だった。映画にも造詣の深い氏だったからの作。この場面、題は忘れたがシーンははっきりと記憶にある。

 

*復活祭来つつ去りゆく夜の巷孔うがちたるごとく花鋪(くわほ)あり

 どうってことのない風景、復活祭と、花鋪の取り合わせで、少々異国情緒が出たか。夜景だから"孔うがちたるごと”がくっきり決まった。

 

*音楽の絶えてこの夜になかりせばサン・サーンスの雨の山査子(さんざし)

 サン・サーンスとさんざしの語呂合わせ?それ以外、浅学の非才には想像が出来ない。かすかに古歌の匂いがするのだが、どう深読みしようとしても駄目でした。

 

*櫻桃の百相触るるまぼろしの夏 遊星に何創まらむ

 櫻桃と言う桜の花は、満月を見てはじめて満開すると謂われている。それが百花一斉に満月に触れるとなると(しかも夏)これはもう奇跡に近い。まさにまぼろし以外のなにものでもない。これはこの遊星になにかことがないといいが・・・。

 

*陽のもとに影なきほのほ恋すてふこの一語ちちははに依らず

恋は独断で始めるもの。ちちははといえど関係ない。まして太陽のもと、隠れ無き恋だもの。ホラ古歌にもあるだろう。恋すてふわが名は未だき・・・。

 

*おもふことさしてそれとは菜の花と塩と蠍の春のゆふぐれ

 これも判らなかった。結局、思うことは、ナ の花、シお、サそりで、思う事な無しさ、との判字読みしか出来なかった。

 

*男てふこころの夜にうめもどきうるみたまゆら夢違(たが)ふなり

 文句無く好きな一首。うめもどきは、うるむ玉響の夢にかかる掛詞に違いない。声に出して詠みたい一首。

 

*夏いまだ童貞の香の馬を責む恋いつの日に解かるる魔法

 

 恋に悩む男のいらいらした姿が目に浮かぶ。塚本作品にしてはかなり具体が勝っている。それは、終句

の魔法に我々も罹ってしまっているのかもしれない。

 

 この「されど遊星」は、歌集らしい歌集(数多い塚本歌集の中で)であるとわたしは思う。


                                               (続く)



今日の歌


*音信の絶えてなきまま暗澹のはるふかき午後ひとり切る 爪 


*渋しぶととどこおり居りさびやかな老年の孤を載せて 車は


*幾そ度入れつつ筆の朱やかな彩わが物として歌生るるなし


*展きつつ死にゆくならん蝶の羽は画帖に蒼き火を放ち居り


*許されぬままの夭死を恋いながら徒手空拳の昨日また今日

 

 

 

 

 

 

 

 

四月二十四日(日) ③塚本邦雄の短歌「蒼鬱境」と「青き菊の主題」其の一

「蒼鬱境」 第八歌集   1972年8月30日 湯川書房刊

 

*えらびける愛は雄蘂の立葵晴るるよりほかなき夕空に

 意とするところがもう一つ不可解だが、調べの良さに惹かれる。

 

*月は樹蔭にありつつ見えずおとうとのたなごころなる苦き杏仁(きやうにん)

 初句七字、歌意はこれだけのことなのに、何が在る?と、つい、考えさせられててしまう。

 

*死とひきかへに今日わかものの何宥す水奔りかなたあやふき蓮(はちす)

 これも初句七字、歌意も充分解かる。佳作。

 

*夏昏れて処女らは髪炎(ほ)の色に染むおほよそのかなしみのほか

 珍しく三、四句跨り、私はこう言う形は生理的に厭だ。おほよそで切るのが、この後を十七字とするわけだがこれが生理的に合わないのだ。

 

*きれぎれに男のことば夜の沖の帆はすぎしかなしみをはらめて

 かな しみ・・・と切る四句、五句の句跨りだが、こおいうのは嫌いじゃない、寧ろ、好きで、私作でもしばしば意識して使う。

 

 

「青き菊の主題」  第九歌集   1973年10月10日  人文書院刊

 

この歌集は厄介だ。小「小説」と、歌の微妙な絡み合わせが惑わせる。しかし、歌は小説に附き過ぎてはいないので、歌のみ抽出しても不自然でなく、従って此処でも歌のみに触れていく事にする。

 

*わたつみのたてがみ荒るる神無月燭翳るごと吾(あ)を睡らしめ

 非常にすんなり入ってくる。”月”に”燭”が掛けてあるのが解からないと面白くない。彼特有のうまい暗喩です。嵐なのに煌々と照る月光の下、静かに眠りに就く景色、堪りません。

 

*照る月の黄を屋の上(へ)にあふれしめ家あはれ男を容るる檻

 四、五句跨り、いえあわれおと・・が四句 ・・こをいるるおり が五句、いわずもがなですね。

 

*剃りあとの藍の粟つぶ芽ぐみつつ夕べエル・グレコの絵の地獄

 四句、五句の句跨り、グレコの地獄絵を見て、思わず鳥肌が立って、剃ったばかりの髭が粟粒のごとく浮き上がってきた、というだけの歌だが、何か他に見えますか?

 

*沖はひでりなさざる恋のなかぞらに星とよばるる火は流れたり

 「恋や恋 われなかぞらになすな恋」を下敷きに、ひでり と 星 の矛盾が気になるが・・

 

*よろこびここに尽きて華燭の一人(いちにん)に根より截られし菫の花環

 初句の七字、初句二句の句跨りで、調べは通しにくい。それと根を附けたままでは普通花輪にはしない

でしょう。

 

 

 

四月二十四日(日)②今日の歌

今日の歌 (塚本邦雄氏へのオマージュ)

 

*語りえぬものがたりなど彫りゆくなわが墓碑銘はただ朱き銅

 

*月に哭く鬼あらば在れ垂直のやみにふかぶか措かむ孤独は

 

*思ふほど思はぬこころそれも佳し露を葉先に薔薇はつめたき

 

*かるがると死を語り居し若き日の夜に斯く似る今よ疾く去れよ

 

*嬉々としてうらぶれの吾に降り懸る銀杏その実の明日あり否

 

*絵日傘よ 紺のかすりよ ふるさとよ赫ヤクとして月はわが眸に

 

*北のひと偲ばゆ 宵のプレアデス 見上ぐればただ重き鎮もり

 

*背には汗頬には泪かかるわがたそがれを噛みしめむ 春逝く

 

*闇ならぬ夜をまちなかに否みつつとおき潮騒い恋ふ 熱帯魚

 

 

四月二十四日 (日) 塚本邦雄の短歌「星餐図」

星餐図  第七歌集  1971年12月25日

 

*詩歌濃くふふみこの夜にただよふを桔梗(きっこう)の水わがこころ截る

 

詩歌濃く ふふみこの夜に ただよふを 桔梗の水 わがこころ截る と、読むのだろう。初句、二句の句跨りを一瞬、見えなくしているのは何故だろう。

 

*火の星の夏 淡き血の夏 われは襤褸翩翻(らんるへんぽん)として架(かか)る

 

調べに載せてみよう。「火の星の  夏淡き血の  夏われは 襤褸翩翻  として架るべし」 となる。

韻律を第一にすると、見た目の詩形が崩れる。結局、彼は形第一とした。これも彼の歌の特徴の一つである。

 

*はららごのごとき四月の星見よと招(よ)べば鞭打症のおとうと

 

 

一見、素直に通じているようだが、四、五句の句跨りが隠れている。いや、わざと隠してある。目くらましである。それと、そのおとうとがどうしたの?と聞きたくなる。文意の隠匿である。これまた技法のひとつ。

 この歌集には、調子の崩れがあまり目立たない。つまり朗詠に耐える歌が多い。二、三私の偏見と好みで数首を引いてこの歌集から去ろう。

 

*愛あらずとも擁くここにたちばなのかをりなだるる水無月の修羅

 

*こに立ちてひだりは他界深淵のさざなみに散文の網打つ

 

*韻文のきのふほろびて麦熟るる光にわれはさらさるるかな

 

*人は妬みに生くるものから 十月のひるのねむりに顕つ青柘榴

 

*ひややかに四月の霞わかものの頚動脈にわれの血通へ

 

*秋にありて秋こそおもへ死の中にありて思へばうすべにの蕗

 

*耳にさやりて香る風花またの日も恥おほくこの修羅に遊ばむ

 

*死なばまたかへらむ修羅に韻文は芍薬の香のごとくひびけよ

 

                               (続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

四月二十三日(土) 塚本邦雄の短歌 「感幻楽」

「感幻楽」 1969年9月9日 白玉書房刊

 

 

*固きカラーに擦れし咽喉輪のくれなゐのさらばとは永久(とは)に男の言葉

 

四句のとはとはとの繰り返しがこの平凡な一首の中で屹立している。この様な作歌作業も彼の特徴の一つである。

 

*シーツをよぎる青きはたはた夏風邪の家族泡立つごとき眠りに

 

泡立つ眠りがもう一つピンと来ない。諒解できない。”はたはた”は、多分魚のはたはたなのだろう。その魚がまさに断末魔で動きもならず泡噴いている、のはなんとか理解できるが、それが家族の姿への連想がうまく行かないので、私はいらつくのだ。

 

*はなびらに孔ふさがれし噴水のわれより奪ふものあらば侮蔑

 

いい抒情歌だと思うが、いきなり侮蔑が出て来て唖然。

 

*わかものの臀緊れるを抒情詩のきはみにおきて夏あさきかな

 

これはまさに塚本氏の抒情だ。

 

*水上スキーのあかがねの脚はるかなる沖ゆく 牡は牡みごもれよ

 

牡に身篭れと言うのだから驚く。彼流のひとつのエロスか。

 

*死は一瞬のめまひに肖つつ夏はやも少女らが亜麻いろの腋の巣

 

このエロスはとても解かる。解かるなァ

 

*噴上げの穂さき疾風(はやて)に吹きをれて頬うつ しびるるばかりに僕(しもべ)

 

*鮮血の赤の他人のわかものと硝子へだてて立つがらす舗(に)

 

この二首は割りと素直に調べが通してあるが、内容と不釣合いかな、と思うが。それが奈辺に意識があるのか不可解。

 

*わかき父あり時に激してわれを殴(う)つよろこびと夏あをき柘榴と

 

*たとへば父の冤罪の眸(まみ)愛すべし二重封筒のうちの群青

 

と、父に対する異様な感情を見せる。おおかたの歌人に、これが見られるのは興味あり。

 

「感幻楽」は、十二章の小歌集の集まりで、後になるほど、従いていけなくなる歌が多い。私の無知の故とも思うが、割愛せざるを得ない。許されよ。

 

 

今日の歌(塚本氏へのオマージュ)

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*闇の嵩増すばかりなる 鎖されて詮方もなき深夜の茶房

 

*糾すべき理由など無し黒塗りの受話器黙示と識れば尚更

 

*儀式めく聴診に知る何もなし医とは斯くかなしかる虚実や

 

*鬱血のひとみ展ごりそを見やるまなこまなこに映す緑虹

 

*メニエール症候群にかしぎたる首ややにして聞くは 蜩

 

*しょうねんのほほ蒼白きまままなこ閉じて居りたり剖検台に

 

*呻吟の恋ほしくもあるかい寝がての夜に聴くはただ遠き潮騒

 

*肝胆のふたつながらに痛みつつ見上ぐれば黄金いろの空

 

*あわあわと春の煙らふひと所緋シャツに秘めて置かむ殺意は

 

*斯くばかりふかき思ひの在りしかば賽振るごとくふみ封緘す

 

*写実論さもあらばあれ春天のほし目に昏しこよひ子規忌の

 

*鎖骨にひびけ遠雷わが声のごとくす なれの耳聡かれば

 

 

 

 

 

四月二十二日(金) (続)塚本邦雄短歌「日本人霊歌」

「日本人霊歌」 1958年10月31日 四季書房刊

 

*日本脱出したし、皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係も

皇帝ペンギン既に、黄泉の国へ去りしも、飼育係は怜悧な児ペンギンと,可愛い孫ペンギンの行く末に思いを馳せつつ、なお、新しき雄ペンギンの誕生を夢見つつ檻内を見回りて居り。

 

*石鹸積みて五月馬車馬坂のぼりゆけりふとなみだぐましき日本

国民一人一人歯を食いしばって復興に汗流して励んできた。なんと涙ぐましい風景であることよ。

 

「驟雨修辞学」 未刊歌集

 

*父となりて革る莫しぬかるみに石油の虹みだるるを喩ゆ

仰せの通り車が増殖し過ぎとても革りません。今の世は。

 

「緑色研究」 1965年5月5日 白玉書房刊

 

*金婚は死後めぐり来む朴の花絶唱のごと蘂そそりたち

さならず、何故生きて歌える迄歌わぬか?

 

*医師は安楽死を語れども逆光の自転車屋の宙吊りの自転車

安楽死、さもないと自転車は永久に宙ブラリン。

 

「感幻楽」 第六歌集 1969年9月9日 白玉書房刊

 

*馬を洗わば馬のたましひ冴ゆるまで人恋はば人あやむるこころ

あまりにも有名な一首です。洗はば、でもし洗ったなら。だから、若い人を恋しいと思ったら殺したくなる・・同感です。

 

*壮年のなみだはみだりがはしきを酢の壜の縦ひとすぢのきず

酢が眼ぬ入ったのですよ。

 

「水銀伝説」 1961年2月20日 白玉書房刊

 

*乳房その他に溺れてわれら存る夜をすなはち立ちて眠れり馬は

その他にヒックルメテあるもの、立って眠る馬、どうしようもない若さの情念が迸ったのだろう。

 

*眼科医、眼科医と逢ひしかば空港のあかつきのあかねさす水晶体

白内障は進行の度合いにしたがって、外界が赤っぽく見える。彼はこの頃網膜症(所謂、中心性網膜炎)に罹患して加療を受けていた筈。

 

「緑色研究」 1965年5月5日 白玉書房刊

                               (続く)

 

 

今日の歌

*晩年のはじらい在れば汝がための口説を独り呑み込みて居る

 

*汝がかげに沿う風説の覚束かな空しろじろとかわき切りたり

 

*あるいは愛潜めたるその眼交いはさざなみの寄るごとき触発

 

*その頬に似合う黒髪デッサンの女 孤独をモノトーンにして

 

*さかり男のとき過ぎゆきぬ緩徐調ならんわがたそがれの終章

 

*後退さりすれば黄昏色をして峡はファインダーを斜に横切る

 

*避けがたく辿る軌跡よかなしみのなお終局にとおき孤の騎旅

 

*裏切られ居る身も知らず午後の陽の中に閑吟降り零しつつ

 

*酔いもせず見しあさきゆめ簡潔に捨てて惜しくも無き少年期

 

 

 

四月二十一日(木) (続)塚本邦雄の短歌

今日も抽出しながら考えを述べていこう。

 

「装飾楽句(カデンツア」」より

*五月祭の汗の青年,病むわれは火の如き孤獨もちてへだたる

 

これも有名な一首である。多言はいらない。ただ、塚本にしては直截過ぎる。何か隠されていないかと、三十分対峙したが、結局どうしようもなかった。

*青年の群に少女らまじりゆき烈風のなかの撓める硝子

 

裡に秘めた情念が素直に解かる。危うい心情が、撓む硝子に見事に表れている。

*暗渠の渦に花揉まれをり識らざればつねに冷えびえと鮮しモスクワ

 

ひとつ疑問、識れば暖かい花のようだというのか?あるいは暖かく鮮しいモスクワだというのか?

                                                (続く)

 

今日の歌 (塚本邦雄氏へのオマージュ)

*黄泉の夜水中花おのづから開き受粉するてふ噂知らずや

*掃き捨つるほどの未来やぬばたまの夜に冀ひつつ呑むレモナージュ

*マラソンに宙飛ぶごとき白魚の眼せる女の病ひ鉢巻

*陽ざかりの春に生れしやくちなはは雌雄絡めるままに朽ち居り

*ロミオ用品店 春服を換へて喪服それのみの下半身像