keiの歌日記 -35ページ目

四月二十日(水)  今日も塚本短歌に就いて

再び三たび塚本短歌に就いて

⑥体言止め(名詞止めが多い)

⑦”われ”のごとき一人称、(特に彼自身を現わす)が極めて少ない。

その他まだまだあるけど、追々文中で記して行きたい。

 今、目の前に分厚い「定本 塚本邦雄湊合歌集 1982年5月25日 初版 限定版」が私を圧倒するようにデンと居座っている。1982年までの全歌が、私に向かって「どうするんだ」と眼を剥いている。

 何時まで懸かるかか判らないが、何とか分にあった作業をぼつぼつやって行こう。

 断っておくが、難字(第二標準当用漢字にすら含まれないような,唐字、梵字)等にt就いては、適当に対応して行く。

 

「水葬物語」

平和について(抜粋)

 

*革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ

 (余りにも有名な一首、なにを今更・・・)

/

*地主らの凍死するころ壜詰の花キャベツが街にはこび去られき

/

*輸出用蘭花の束を空港へ空港へ乞食夫妻がはこび

/

*賠償のかたちにもらひし雌・雄の闘魚をフライパンにころがす\

/

*聖母像ばかりならべてある美術館の出口につづく火薬庫

 (戦火に煙ったイラクの、バグダットのビデオの絵が眼に浮かぶ)

/

*墓碑に今、花環はすがれ戦ひをにくみゐし ことばすべて微けく

                                         (未完)

 

今日の歌(塚本邦雄氏へのオマージュ)

/

*淫靡なる香を蒸たたしめて生(あ)れ来たる新生児に月煌めく

/

*肌はかならず婚姻色に染むべきぞ初なつのマラソンランナー

/

*脳漿の腐れゆくまま歳老いてカナリヤはなほ鳴きぬ恋ひ唄

気安くご意見をコメントに残して行って下さい。

 

四月十九日(火) 再び塚本邦雄氏に就いて

長年彼の作品に触れ、色々倣っていると二、三の特色に気づく。

もっとも、最近の彼の作品を閲していないのであくまでも二十年前ごろのことであることを断っておく。

①:句またがり(特に四句から五句に掛けて)

②:初句の字余り(七字、時に六字)

③:稀に五句の字足らず

④:わざと劃数の多い漢字の多用(旧かな、第二水準漢字表にも無い字に戸惑う)

⑤:悪くいえばわざとの目くらまし、難解な言い回し

等々、まだまだ有るが順次書いていく。(この項続く)

 

 

今日の歌(塚本邦雄氏へのオマージュ)

..

*千の泡上へと墜ちぬ珈琲店(カフェショップ)の机上に曹達水の憂鬱

*いささかの労ひを見す碧眼のサラブレッド達の嘶き

*綺羅為して過去より疾り来る女達の装ひめくるめく罪業(つみ)

*赤、碧とあまねく酒を呷るあり恋を失せし女の払暁

*浄化為す眼にあらめやもおとうとよ執すればなお恋は消えゆく

 

四月十八日 (月) 塚本邦雄に就いて

ある事で尋ねたく、”かばん”のH・Pへいったら改装中で、仕方なくうろうろしてたら穂村氏のコメントに行き当たった。見て驚いた。塚本邦雄氏が、抹殺されている!

月刊「角川短歌」の今月号?に、昨年の歌壇回顧欄に塚本氏が無視されている,といい、最新の塚本短歌を、各方面から引いてきて掲載してあった。衰えを知らぬ瑞々しい歌が並んでいる。

この大家を、こともあろうに無視するとは・・まさに抹殺である。穂村氏ならずとも憤慨せざるを得ない。

思えば昭和50年代、サンデー毎日の俳句選句欄「句句凛凛」に投稿し始め、暖かい励ましを何度も頂いた昔から、角川短歌の「公募短歌館」での選歌、お目に留めて頂いた光栄は未だに忘じがたいものがある。

余りにも偉大すぎて、「玲瓏」へのお誘いは固辞した記憶があるが、爾来、内心師事してきた私にとって、実に淋しい思いで胸が詰まる。

久し振りに”塚本短歌”(亜流)を作ってみた。公表するので乞うご批判。

 

 

今日の歌

(塚本邦雄氏に捧ぐ)

*われと言ふ虚構のなかでひとしきり駆け巡る鈍色の終電

 

*二の腕に多々在れば傷痛まずも春暮れて明日も春旦

 

*輸出用抒情歌 あれは過世紀にわが父祖たちのほんの手遊び(てすさび)

 

*寒心をひとつ抱へて卯月夜の月へ禊(みそぎ)に捧ぐ 一献

 

 

今日の歌

 

*同胞をいざないて居り 髪ながき乙女くさめすアレルギー疹

 

*デテイルはつねに描けず白壁に目鼻無きかの容貌(かお)またも出づ

 

*返す掌にうつる夕焼けたまきはるいのち鼓動を早めつつ 朱

 

*薄明はわれのみのものささやかにくちずさむかの遠き舟唄

 

*昔かの頬赤々と在りしかどまぼろしはいま何故にモノトーン

 

*ささやきが耳に至らずひとり食む林檎若かりし日の匂いす

 

*夕雲は揺らぎつ忘れ得ぬわれに白きししむら見せたがりたり

 

 

 

 

四月十七日(日) 其の② 今日の歌 

今日の歌

*斬りかえすやいば持たざるかなしさに伏さば後頭葉を風吹く

 

*春夜すでにやみと化したりひとひらの氷片噛めばのどに吃音

 

*一脚の椅子うすれゆく視野のなか危うかりけり われの覚醒

 

*影ひとつせめて届けよペルセウス流るるかたに咲く花のため

 

*愛に化る憎しみ知るや憎しみにかわる愛よりなおふかき修羅

 

*垣間見ししろき頬ありその頬の昨夜の位置そを思うくやしさ

 

*亜麻いろの髪を真闇にながしつつなれよ汝が父を恋せざるや

 

*拡散をなしつつ風へ放ちなばすなわちわれのものならず 鬱

 

四月十七日(日) 歌人論 (私論「春日井 建」)

    私論「春日井 建」

ーー倦くるなき自己への執着ーー

人間は凡そ二歳半から三歳になると自我を持つようになる。誰教えるとも無くその世界が百パーセント自己で占めていると知る。それは、完全無欠の「自己世界}であり情」が他に移ることはない。母への執着も全き自己保持の必然から来るもので、愛情などでは微塵もない。

 前頭葉の発達と共にその世界は徐々に拡大されて行き、自己以外の他者に対しての関心も芽吹いて来るわけである。

 情感の原初としての自己認識は自己に対する愛にかわり、そして自己の原点である母、男の子であれば自己と同性としての父親、そしてやがて同性の他者へと向けられてゆく。すべてこれは自我の延長として、である。

 異性に対する感情は、感性の完熟の最後に、即ち思春期になってはじめて出現する。

 此処に到るまで自我意識は必ず曳引して来るものであり、その感情発達の途上で何かのモメントがあると、或いは母親に、父親に、又は同性に対する意識が強くなり過ぎるかそこで止まってしまう場合が往々ある。

 春日井 建に則して言うならば、対象として彼が歌ったものは、常に異常なまでの自己に対する愛であり、母、父に対する思いであり同性の友への執着であった。ただ一つの例外として同腹の妹に対する感情を歌ったものが異性に対する献歌として在るだけだ。それも、後述するが、自己に偏した対象としてそれは歌われているだけで、ついに普遍的な相聞は彼が歌を中絶するまで見られなかった。 

 

*空の美貌を怖れて泣きし幼年期より泡立つ声のしたたるわたし

 

*太陽が欲しくて父を怒らせし日より空しきものばかり恋ふ

 

*太陽を恋ひ焦がれつつ開かれぬ硬き岩屋に少年は棲む

 

*声あげてひとり語るは青空の底につながる眩しき遊戯

 

*唇に蛾の銀粉をまぶしつつ己れを恋ひし野の少年期

 

 少年は自己を空に投影してその蔭を恋い焦がれた。そしてそんな自己を生み出した母、父に対する屈折した愛憎の形を増幅してゆき、これは又同腹の兄、妹にも及ぶ。

 

*胎壁に胎児のわれは唇を就け母の血吸ひしを渇きて思ふ

 

*鎧扉より卵黄の陽がしづくせり知らざる母を盗み知りたき

 

*己が子のにがき生きざま見むがため父は晩年を執念く生きむ

 

*輝ける不毛の糧よ隠し持つ肉葉樹の蔭の兄の印画紙

 

*喉しぼる鎖を父へ巻く力もつと知りたる朝はやすけし

 

*弟に奪われまいと母の乳房をふたつ持ちしとき自我は生れき

 

 妹への思慕は、彼女をしていつまでも潔くあれかしと希う気持ちに発展する。

 

*いらいらと降る雪かぶり白髪となれば久遠に子を生むなかれ

 

*少女よ下卑となりてわが子を宿さむかあるひは凛々しき雪女たれ

 

*樹がくれの白馬岳(はくば)を仰ぐ頬きよく処女妻として汝よ生きゆけ

 

 そしてやがて彼の愛着は逞しき男性に執してゆく。

 

*牛飼座空にかたむき遠くわれに性愛を教へくれし農夫よ

 

*風は光を渦にして吹く逞ましき腕が肩抱くを求めゐる子に

 

*木馬の首抱きて揺れつつ少年は相呼ぶ夜の熱き眼をせり

 

*男囚のはげしき胸に抱かれて鳩はしたたる泥汗を吸ふ

 

*荒くれを愛せしわれの断罪か暗き獄舎を恋ひやまぬなり

 

 やがて受身の愛は能動的なものへその形を変え少年を愛する姿になる。

 

*埴輪青年のくらき眼窩にそそぎこむ与へるのみの愛は冷たく

 

*草笛を吹きゐる友の澄む息がわがため弾みて吐かれむ日あれ

 

*少年の眼が青貝に似て恋ふる夜の海鳴りとうら若き漁夫

 

*蒸しタオルにベッドの裸身ふきゆけばわれへの愛の棲む胸かたし

 

*わが手にて土葬をしたしむらさきの死斑を浮かす少年の首

 

*イヴの股いとえるこころ痛みつつ樹よりさびしき男娼を抱く

 

 倫理に対する自責と己れの情感との落差に彼は悩み、その歪みが彼をサデイステイクな方向へと磁場を

向けさせる。

 

*遥かなるわが裡は男巫(おとこみこ)ならむ瞋恚(いか)れば霏々として雪が降る 

 

*赤児にて聖なる乳首吸ひたるを終としわれは女を恋はず

 

*わかものの婚姻の日をいつか過ぎ薔薇垣くらく潰れゆく雨季

 

*交合は清冽にして筋肉に添ひてすべれる汗ひとしずく

 

 抽出の歌には自己に対するどうしようもない呵責がみられる、が、それから開き直りが彼を、心を納得させてゆく。

 

*吐シャしゐる白んぼをみる目の燃えてわれに確かな性格破産

 

*わが打てるましろき背や血吸蛭(ちすいびる)が這ひずりまはりゐるとも思ふ

 

*夜の海の絡みくる藻にひきずられ沈むべき若き児がほしきかな

 

*背徳狂と呼ばれゐる背に陽の縞は揺らぐ焙られてやがては死なむ

 

*磔刑の絵を血ばしりて眺めをるときわが悪相も輝かむか

 

その開き直りが彼の歌をむしろ快いものとして次第に読者の中に入ってくる。

 

*逞しく草の葉なびきし開拓地つねに夜明に男根は立つ

 

*獅子座うめたき夜天にふさふ友なれば宇宙のはてに死なむか孤り

 

*刺殺少年われならずやと眩しめば青き葡萄の胃にしみたりき

 

 そしてとうとう彼は、幼年期に自身を投影して恋い酔った空を、太陽を犯してしまう。

 

*太陽は身重のごとしめくるめくわが子を遠く宿したるらし

 

*われ似る子いづこかの土地に生れしならむ分娩のごとき白雲が湧く

 

 ついに彼は娶らず歌も捨ててしまった。捨てざるを得ない自己破壊があったのだろうと私は信じている。

 最近(1985年現在)、空白を置いて再び歌作の世界に還る気配を見せている彼を知って、故郷を近くする私はある種の喜びと、いささかの不安を抱いてそっと見守っている。

              1985.7                     立木葉司(当時のペンネーム)

 

付記:昨年突然不帰の客となられたことを知った。心から哀悼の意を表してこの文を閉じる。

 

 

四月十六日(土) 今日は少々疲れ気味

今日は何故か抜水が1800ccとやや多かった。その所為か疲れ気味・。

 

それと、pcに向かい過ぎ、論文の転載は暫く休みます。

 

 

今日の歌

 

*遠山にゆきやのこれるしなの路にふかきを魅入る眸かがやか

*はるかなる信濃のひとの肩に散る花をはらう手ありや羨しき

*写し絵のもの言いたげな頬の影ああおみな汝よげに慕わしき

*遠きより甘き香放つ薔薇あればこころおだやかならず春の夜

*春涯にわが立つさまをはろばろと遠見の花は百合かはた薔薇

*年甲斐という柵のからむゆえ薔薇摘むこともならぬこよいも

        しがらみ


                          (北のバラへ献歌六首)
  

四月十五日(金) 再び歌人論

   私論「岡井 隆」

ーー再出発に際しての思考ーー

 

「六十年安保」とは果たして何であったか。

つねに冷ややかな傍観者でしかなかった私にとって、「安保」は、僅かに残っていた貧弱な,私のうたごころを、その政治的、革命的、思想的リアリズムと云う、凡そ生理的に私の肌に合わぬ"錦の御旗と矛”で撫で斬りにして行っただけのものでしかなかった。必然的に私は歌から逃げ出して目をつぶることになる。

従って「安保」を舞台に華やかにに登場した多くの歌人達については全く無知であった。

 岡井 隆についても同様である。

 人生の黄昏がほの見えて来たこの頃、私にも詩の女神が再び微笑みかけ、心の赴くまま読み漁りたくなったのは、啄木,夕暮、茂吉であり、現代歌壇の状況には疎遠であったが、実作を始めるとそうは云って居られなくなった。走りだした私の眼前に大きな岩が突然露呈した。それは避けて通ることを許さぬ、かと云って乗り越え得べくもない大きな岩ーー岡井 隆であった。私が歌に対して盲目でいた二十年にこの世界は大きく迂回して、今、所謂「安保リアリズムは,私にアレルギーを起こさせることのないほど遥かなものになっている。私は安心して歌作に没頭しているし、「歌人」岡井 隆に偏見なく対峙できそうなのは、実はこの二十年の盲(めしい)のおかげであるのかも知れない。短歌の根源は「もののあわれ}である、とはいつか書いたことがある。したがってある種のフィルターが懸かっていることは云うまでもない。

 岡井 隆と私の間に二、三の共通項がある。昭和一桁、医師、逃亡者・・・。だが、尺度の違う物差しも当然多い。私は病理学者ではないし、マルクス・シンパもない。彼ほどの行動力も実力も持っていない。だが臆病者であり短調を好む寂者である(勿論彼の場合、彼がそう書いていることを信じるほかないが)ということ、医師であること、それだけでもかなり私に彼への理解の糸口を与えてくれると考えている。

 一首を曳こう。

 

*立ち合いし死を記入してカルテ閉ずしずかに袖がよごれ来る夜半(斉唱)

 

何がかれの袖を汚したのか既論はいろいろある。だが、これこそ彼の鬱の心のいろではなかろうか。自信(よい意味での)の完成されていない医師が死に対峙した時の何とも言えぬやるせなさは、経験のある私にはよくわかるし「しずかに袖がよごれ来る]はその意味で云い得て妙である。

 

*病む心ついに判らぬものだからただ置きて去る冬の花束(心の花束)

 

たとえ医師であっても病者の屈折した折々の心の綾は判ろうはずはない。それは「冬の花束」のように美しげに見えても実は場違いなものである。普通医師は病者に花束など贈らない。それは、なべて花の命は短いものであるので病む人の心はその運命を思う時決して和みはしないことを知っているから。贈るとすれば不明な病者の心に相似た「冬の花束」はまさに格好なもの(恐らくこの歌は虚構であろうが一向に構わない)

と、岡井は思ったのだろう。

 

*夜半死に到るなるべし昏々と黄に染りつつ睡る処女は(天の涙)

 

肝昏睡で死に瀕している少女を前に、なすすべを失った無能の医師の姿が目のあたり見える。少女は処女でなければならぬ。肝昏睡は普通老人に多い。若くして汚れを知らぬ処女が何ゆえ昏睡死に到るほど肝臓を痛めたのか、思いはそこにある。

 

*暗黒につかうるもののたのしさをあらき拍手もて褒めつつ行けり(狩人)

 

これを医師である自身に対する自虐ととるのは暴論だろうか。私も毎日「暗黒につかうるもの」のたのしさかなしさを痛いほど感じているので、歌意をそのように取ることによってこの歌を信頼している。

 

*九つの出口入り口えらぶべきひとつはとうもろこし匂うかな(少年期に関するエスキス)

 

人間の体は外界に対して九箇所の開口部を持っている。(女性は十箇所であるがここでは九箇所でなければならぬ)

 彼はそのここのつのうち、とうもろこしの匂う出口を選ぶと言う。何故だろう。次の一首を対比させよう。

 

*地下道の七つの出口、わが選ぶ嘲弄たえず下りくる口を(私をめぐる輪舞(ロンド))

 

ここで彼は嘲弄たえず下りくる口を選ぶと言っている。これは間違いなくアーヌスだと私は解している。ここで九つのくちが七つになっているのは双眼を閉じた様を思えばいい。

即ち彼は、とうもろこしの匂うような、普通(なみ)の感覚人からは嘲弄されるであろうけれどと暗喩も入れて

下りくる口、アーヌスに対する願望をシャイに歌っているのである。

 決定的な次の一首を引くまでもなく、彼には特殊な嗜癖の一面があることを思わせる。

 

*わが愛して捨てし少年たくましき肩して陶工の中に際立つ(ふるさとの唄)

 

折口信夫にもそれを思わせるがごとき歌ないことはないし、彼も折口のその思いについて歌っている

 

*惑溺し居しひとときの「折口」は悲し継ぐべき境ならねば(天河庭園)

 

折口の歌は岡井の歌ほど濃厚な翳は見られない。

 断っておくが私は岡井氏を非難するのでは決してない。むしろこういう讃美を歌える彼に敬意を持つし、かくの如く歌つてしまつた為に却って歌が浄化され、逆にわからなくしているのを惜しむのである。

 それがこの種の岡井の歌について誤った解釈(イデオロギーと結びつけての)や、ありきたりの評価や、或いは無視がなされているのが少々歯がゆいのだ。

 作品に触れてどう感じようと「読者」には赦されることだし、読者の権利でもあろう。

 秀歌と言われている岡井の作品は数多くある。それに就いて触れるるには私は余りに無力で在るし、既論の蒸し返しに終わってしまう。だから私は彼との共通項の上に立って、精一杯背伸びして取り組んでみたが、この岩は大きく、固く蟷螂の斧どころか、蟻の一なめにもならなかった気がしてならない。紙数が赦せばふたなめもみなめもしてみたい誘惑を断ち切りがたく思ってもいる。

最後に、岡井氏、及び、その作品に対しての勝手な曲解偏見に終始してしまったことをお詫びしてつぎの機会に譲る。

                1985.6.

                                                                                                                   立木葉司(当時のペンネーム)

 

  今日の歌

 

*既に枯れし詩葉在るなり白薔薇の芽吹く若樹を焚けば炎中に

 

*待たるるは吾かはた敵か少年は掌を薄ら陽の中に振り居り

 

*大樹すでに影失いぬ背後より忍び寄る黄昏の余光に

 

*樹を巡る闇にひととき熔け入りてゆかばや孤独にやや疎みたり

 

*終幕を告げて喜劇の消えゆきぬ こころ垂鉛のまま視る虹

 

 

 

 

四月十四日(木)再び歌論について

昨日の分の中で、説明不足の、いや、昔すぎて判然しないところが多々あったと思うが、作品に「哲学」を感じたいというのが私の偏見である。フィジカル・パターンの、或いはフィジカル・パターン風の作品はどうもすんなり入って来ない。言葉の持つ生命に少し執着しすぎるのかもしれない。

 花火のごとく華やかに咲いて、大方は散ってしまったかっての前衛歌人のなかで、なお霧消せず屹立して耀いて居る部分に強く惹かれるのもこのことと無関係ではない。

 言葉の綺羅で、空虚な内容を奇異に衒ってもそこになんの「哲学」も感じさせてくれない前衛の騎手(たとえば某氏)、ありきたりの日常茶飯事を、読者の諒解は無視してこむつかしく歌う自称前衛歌人(たとえば某某氏」等の作品を私は拒否する。 彼等の歌に何のメンタルシヨックも受けない。

 だが、塚本邦雄や岡井 隆の場合には私の態度は違う。特に塚本邦雄の場合そうなのだが、奇抜な発想、難解な語句、美麗な活字、そんな形而上的なものを、前衛短歌の全部だと拒否してしまう姿勢は採りたくない。彼は、大勢のエピゴーネンを生むひど、やはり器が大きいことを素直に認め、その前衛といわれる表現方法で何かの哲学が歌われていればそれを高く評価しようし、その表現に彼の「言葉」が必然であるとしか取りようがが無い時、むしろ私は身震いしてしまう。

「かものあしけるかとみればけりもせでけらずとみればけりにけるかも」 このパロディは痛烈である。

「けりにけるかも」で決して現代の人生哲学を歌うことは出来ない事実を深く知るべきだ。豊富で、表現が窒息しそうに膨れ上がった歌を作れる人を羨ましいと思う気持ちもあるが、私自身そういう努力をする気はまず起こらない。主題がはっきりしない所で、「哲学」は述べ得ない。

 言葉がその事象を述べるのに、唯一無二の必然が不可欠だなどとは勿論言わないが、少なくとも作品にする以上、作者自身と一人の鑑賞者、即ち最小限二人の間に諒解が生じるものでなければならなぬ。つねに不特定の鑑賞者を意識して彼等との間に諒解が成立する最大公約数の中で言葉を選ぶべきだ。

 「言葉」の諒解の有無が作品の評価に重大な差異を生じる。たとえば、

 

*まとひたる花の明りかそよめきか吾子に譲れぬ椅子ひとつもつ   (○○子)

 

「そよめき」が私には諒解出来ない。従って歌が私に与える衝撃は極めて弱い。この「そよめき」が何か具体的な「もの」に変わっていたなら、私はK・Oされてしまっただろう。

 

*数知れず空にかかりし太陽をはずして探すわが免罪符  (口口子)

 

「数知れず」とは無数のこと、たった一つであるべき太陽をこう言っていいのかに抵抗がある。だが、これを日ごと日ごとに昇って架かる太陽を、それぞれのものとして見ると、作者の数しれぬ過去の苛立ちの日が

はっきりわかる。つまり、この矛盾には関係なく作者と私の間に諒解が成立し、私にとってこの歌は燦然と耀いて見える。しかし、大方の読者にどうかは、別の問題である。ここが私の言う「偏見」である。

 ながながと書いたが意とするところは解かって貰えただろうか。

 次回、視点を変えて論じよう。

 

 

遠慮なく痛烈なご意見をどうぞお聞かせ下さい。

 

 

今日の歌

 

*われは他者 汝悲しかり白哲の額しょうねんに似し裸婦像

 

*老い易きものにあらざる幻のごとき少年わが裡の絵の

 

*しのび逢う月と雲との妬ましく風のあとさき思う独り居

 

*腰痛のしきりなる暗闇のなかひややかにわれは茂吉に耽る

 

*暮るる世に身は寂々と立ちてけり生くることまた枷と思えど 

四月十三日(水) 旧い原稿発見

    私論「村木道彦」

 ーー計算された抒情ーー

 

「六十年安保」の政治的、革命的リアリズムを到底短歌のものとして諾い

がたく歌から逃げ出した・・と私は以前何処かに書いた。

 今、一冊の歌集を前にして私は、こういう行き方もあったのに何故そうし

なかったのかを冷静に考えている。そして村木道彦が当然すぎる位安直

に、かつ、自然に造り出している洒落たダンデイズムを私が持っていなか

ったからだと、やっとわかった,。

 要するに彼は正々堂々と、当時の大学紛争(いわば安保の延長線上の

所産だろうが)のさなか、全くそれと関わりの無い磁場で平然と歌っていた。

同世代の多くの歌詠みたちが思想を、政治を、建前を彼等なりに定型韻律

に引き込んでそこを王道として進んでいる時、それは大いに勇気の要る

ことだったろう、と思うのは実は他人の詮索で、彼はのほほんと気儘に彼自

身歌いたいものを歌っていたに過ぎなかったのかも知れない。

 彼は干支にして私より一回り若い、いや私が一回り老いている・・・その私

が今、彼を取り上げることに或る種の面映ゆさを感じるのをどうしても禁じ得な

いが、私に二十年の歌のブランクがあったことをしっかり意識してここであえ

て彼をこの道の先進として味わうことをさ程違和感の無いこととして自分を

納得させ本論に入る。

 ひらかなの多用によって彼は彼の歌を計算された以上に抒情的にすること

を知っていた。逆に、時たま現れる劃の多い漢字が適度の異物感を読者の

心に投げ掛けることも、である。

 かって会津八一が、なにゆえひらがなに固執したか、チョウ空が句読点を

感性の弾発力として用意していたか、此処では触れないが私なりの諒解が

或る。村木の場合のひらかな多用は、よい意味での凭れかかりの効果と、

数少ない漢字を際立たせる効果を狙った様に思えてならないし、彼の場

合それは成功していると思うがどうか。

 

*するだろうぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほうばりながら

*あわあわといちめんすけてきしゆえにひのくれかたをわれ淫らなり

 

一首目のなんと軽いこと。失恋の相手に対する思いをこんなに軽く言って

しまっていいのだろうか。それを思い遣りとみる向きもあるが、私はこれは彼

の一種のツッパリと読みたい。

二首目は全部ひらかな書きにすることによって、「淫」の一字がひとしお強調

されて面白い。

 彼の狙いはここではなかったのか。これは勿論一首目の「マシュマロ」にも

見える。彼の計算は緻密である。同種の狙いを持つと思われる数首を出してみ

る。

 

*死を幻(み)るということさえもぎりぎりの生くるあかしとしてわれらあり

*ひくるるやひがしはんきゅうのたそがれは風鈴ひとつならしたるのみ

*ゆうぐれのそらさまざまのあかねぐも色情狂というべくもあれ

*なにもかもあきらめたるというわれに赫ヤク(かくやく)として西陽はさすも

 

抽出すれば際限がない。彼の作品はこの計算の上に建っていると言っても過言

ではない。

 事象を自分の感情として語らせるひらがなの効用をよく知った上で作られ

た短歌は時に危うい。

 

*生命(いのち)なきものわれを呼ぶ荒廃にうずもれているやさしき洋館(やかた)

*蔵書(ほん)をうりはらいしのちのたましいにしょうじょうとしてなつはきにけり

 

洋館(やかた)蔵書(ほん)など少し無理に読ませたくてルビを振ったのだろうが

却って浮き上がり過ぎてしまい狙いが的はずれの感無きにしもあらずと思うのは

ひがみか。

 

*死は宇宙旅行といいし老婆逝(ゆ)きいくばくの現金(かね)・預金・株券

*空想に万(まん)たびおかせし女生徒(ひとり)いて読書会用図書くばるかな

*救済を希(ねが)うこころに降り出でて一夜しのつく雨となりおり

 

振らずもがなのルビを漢字多用歌ではつけている。つまり漢字に対する信用が、

ひらかなを多用することに希薄になった心理がこの様なルビをつけさせたのでは

ないだろうか。特に「女生徒(ひとり)」は苦しい。苦しいがそうでなければこの一首

は成立しない。こんな所に彼の思わぬ弱点があったりするのを見つけると嬉しく

なるのだから私も真っ当ではないのかも知れない。

 福島泰樹がいみじくも言っているように、

<目を細め見ゆるものなべて危きか危し緋色の一脚の椅子>ではまことにつまら

ないものになってしまう。これはまさに

 

 *めをほそめみゆるものなべてあやうきかあやうし緋色の一脚の椅子

 

だが逆に、

 

*青春はあわれせつなくおもわるれわずかおとこの液なりしかど

 

では変ではないだろうか。

<青春はあわれせつなく思わるれ わずかおとこの液なりしかど>まで整えて

ほしかったと思う。

 主観で書けば書きたいことは一杯あるが、村木道彦の世界には確たるものがある

ことは

否めないし、その、些かペダンティクにさえみえる歌い口は愛唱に値する。

 

*水風呂にみずみちたればどっぷりとくれてうたえるただ麦畑

 

この一首を挙げれば私の書いたことすべてが蛇足になってしまう気がしてならない

思いで一杯である。

 

         1985.5                           立木葉司(当時のペンネーム)

 

付記

最近、丹羽さん、美里さんたちのブログへ行くと、文語、口語、韻律等等について

かなりの論争?がある。それに触発されて、昔々の原稿を思い出した。

この他、岡井 隆論、春日井 建論などあります。

もう時効だから、著作権は関係ないでしょう。暇なときまた載せます。kei

 

四月十三日(水) 旧い原稿発見 そのⅡ

最近、丹羽さん、美里さん他の人のブログを覗いて見ると、文語,口語論、うたのしらべ等についての論争が見られます。各々主張があって当然でしょう。論に加わる前に、私の本意をまず記しておきます。 言ってみれば私なりのフィルターを掛けての物言いです。 短歌の根源は[もののあわれ」であると信じて止まない私ですので、私の謂いには当然偏見のフィルターが掛かっています。 「もののあわれ」とは、陰であり、鬱であり、寂である。陽、躁,騒は決して相容れないものである。(オリヂンは短調なもの・・・それが短歌である、と私は信じているひとりである)ただ、陰、鬱、寂の反措定として歌われること、これは別のことである。

 その一例として、1985年頃、某誌へ寄稿した原稿が三つほど出てきたので一つづつ転載してゆく。